「本当に困っている人」だけを選別する福祉は「本当に困っている人」も救えない – すべての人に「生きづらさ」強いる福祉のパラドクスと生活保護バッシング

  • 2015/8/19
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(※2014年7月13日に書いた記事です)

先に紹介した「ハリー・ポッターは日本では生まれない – 能力つぶし社会的損失ひろげ機会の平等を保障しない日本社会」の中でも、唐鎌直義立命館大学教授が少し指摘しているのですが、「本当に困っている人」を助けられない「福祉のパラドクス」の罠に陥っている日本社会の問題です。唐鎌直義立命館大学教授にロングインタビューする前に数回講演を聴いているのですが、その中から「福祉のパラドクス」について、語っているところの要旨を紹介します。(文責=井上伸)

チャップリンの母親を救えなかった
「本当に困っている人」だけを「選別する福祉」

いまの日本における生活保護バッシングは、1830年代のイギリスの産業革命期の社会保障にまで後退させかねない危険性を持つものです。

1834年にイギリスで成立した新救貧法の特徴は次の4つです。

1つは、労働可能な人間に対する救済はすべて拒否。結果、どんなに悪い労働条件でも労働者は受け入れるほかないという惨状が広がりました。今で言えばブラック企業天国のような労働市場になってしまったのです。

2つは、被救済者の地位は、働いている人間の中の最下層の生活水準以下にする「劣等処遇原則」を貫くこと。

3つは、「本当に困っている人」のみを救済するため、劣悪な環境の救貧院に入ること=ワークハウス・テストを実施すること。

4つは、全国で統一基準の救貧法運営が行われるよう救貧教区の合併、中央集権化をはかること。

この新救貧法によって、貧困は犯罪と同列とみなされ、バスティーユ監獄にもたとえられた貧民収容所の惨状をもたらすことになりました。

チャールズ・チャップリンは、ロンドンの母子家庭で育ち6歳のときに救貧院に収容されています。2人の息子に食べ物を与えるために、自分は食べずに我慢し続けた母親は精神を病み、それでも新救貧法の適用を受けることを拒み続けましたが、家賃の滞納が続いたため大屋が警察に通報し、母子別々に収容され、母親は救貧院で亡くなります。

チャップリンの母親は、なぜ2人の息子に食べ物を与えるために、自分は食べずに我慢し続け精神を病んでまで、新救貧法の適用を受けることを拒み続けたのでしょうか?

それは、「本当に困っている人」だけを選別して救済しようとする新救貧法で、誰しもが「国家公認の貧民」になって辱めをうけることだけは避けたいと思ったからです。

「本当に困っている人」だけに新救貧法が限定されたとき、人間としての尊厳を大切にする人ほど、どんなに困窮しても新救貧法を受けたくない、「国家公認の貧民」というレッテルを貼られたくないと強く思うことになってしまうのです。

こうして新救貧法は、絶望的な困窮に陥っている人でさえ二の足を踏む、できる限り回避すべきものとならざるをえません。これを「福祉のパラドクス」と呼びます。「本当に困っている人」だけを救済しようとする福祉は、「本当に困っている人」さえも救済できなくなるということです。

それでは、なぜいま生活保護バッシングが日本社会で吹き荒れているのでしょうか? それは健康で一定頑張って働くことができる人たちが生活保護の受給を自分とは永遠に関係のない他人事と考えているからではないでしょうか。しかし、自分が本当に困ったときのことを考えてみる必要があります。困窮し、生活保護の受け手になるほかないような自分を真剣に想像してみてください。

そもそも、日本には生活保護を受給することに対する根強いスティグマ(恥辱感)があります。ヨーロッパでは、このスティグマをなくすために、福祉を「選別主義」から「普遍主義」へと転換してきました。「普遍主義」の福祉というのは誰もが当たり前のように受けられる公的サービスです。たとえば日本ならば「義務教育」を受けることは当たり前の「普遍主義」になっていますから誰もスティグマを感じたりしないわけです。逆に貧困を救済できなかったイギリスの新救貧法はまさに「選別主義」だったわけです。

フランスにはRMIという「参入最低限所得制度」があります。「参入」というのは、労働市場への「参入」を意味していて、劣悪な労働条件の仕事には就かないことを選択可能にする国が最低生活を保障する福祉制度です。とりわけ、若者の労働市場への「参入」を支える所得保障制度は、雇用の劣化をストップさせる効果を持つと同時に、「失業者」も、所得保障による「保護受給者」も、いま働いている労働者の雇用劣化をストップさせるという一つの社会的地位として受け容れる社会をつくっているわけです。

いまの日本は、非正規雇用とワーキングプアの増大、そして正規雇用でもブラック企業の横行などによって「働いたら普通に暮らせる社会」になっていません。こうした雇用の劣化を放置したままで、生活保護バッシングをして、「働けるのならば、働け」と、国民に「自立」を求めるこの国の社会保障制度では、孤独死・餓死・自殺などの悲惨な多くの事件を未然に防ぐことはできないのです。

以上が唐鎌直義立命館大学教授による「福祉のパラドクス」についての指摘ですが、これが、実際に日本社会でどうな形であらわれているのかの一端を示すものとして、NPO法人ライフリンクが実施した「就職活動に関わる意識調査」があります。これを私がグラフにしたものが以下です。

上のグラフにあるように、半数以上の大学生は、日本社会はいざという時に何もしてくれず、やり直しがきかい社会で、正直者がバカを見て、あまり希望を持てない社会だと感じている上に、「自己責任」の傾向があります。加えてグラフでは紹介していませんが、現在、本気で「死にたい」「消えたい」と考えている学生は10.0%で、「以前は考えたことがあったが、今はない」が27.3%、あわせて37.3%の学生が本気で「死にたい」「消えたい」と考えたことがあるという回答結果もNPO法人ライフリンクのこの意識調査では出ています。

それから、先に紹介したように、作家の星野智幸さんは次のように指摘しています。

この間の生活保護バッシングの問題が象徴していると思っているのですが、日本は異様な社会、異常な社会になってしまったのではないでしょうか。

とりわけ、弱い立場にいる人達にとって、言葉を発するのさえ怖い社会、自分の意見を言うことさえ怖い社会に、日本はなってしまっています。弱い立場の人達が言葉を発すると、たちまち物理的な暴力と、言葉の暴力で寄ってたかってつぶされてしまう。実際にそういうことが起こっているわけです。突然、日本社会がこうなったわけではなくて、この間の自己責任論が強まる中でこうした社会になってきてしまっていると思うのです。

生活保護バッシングを見ていると、言論の世界にいる私でさえ言葉の暴力に恐怖を感じるのですから、普通の人が素直な自分の思いを言葉にすることにさえものすごい恐怖を感じてしまうでしょう。さらに恐ろしいのが、こうしたことが日本社会の問題としてきちんと自覚されないままになっているのではないかということです。

こうした状況は社会の隅々まで行き渡っているので、とりわけ経済力のない若者や子どもたちは、自分の気持ちを素直に出す環境にまったくないと思うのです。社会のそうした流れに逆行することを言うとバッシングされるのはもちろん、こうしたデフォルト状態の社会に対して、何か違和感やこれは違う、おかしいと感じてもそれを表現するという選択肢さえもはや持っていないということです。それぐらい今の日本社会では弱い立場の人達の言論、意思表示に対してものすごいプレッシャーがかかっている社会なんじゃないかと思っているのです。

何をやってもいいのだとなれば若い人はいろいろやれると思うのですが、何もやってはいけないというのが強くて、とくに生活保護バッシングが起こったときにそれが剥き出しになりました。弱い立場にある多くの若者たちが「助けて」と言えないのはこれが大きいと思うのです。

隙を見せたら終わりというような社会で、自分の気持ちを素直に表現するのではなくて、隙を見せないために自分を防御するために、一種の鎧をまとっているような状況で「助けて」とは言えないでしょう。

生活保護バッシングをする側はどうでしょうか。生活保護バッシングをしても自分の生活は良くならないことはバッシングをしている本人も分かっているのではないでしょうか。しかし、そのバッシングをする瞬間にその人達は自分が生きている実感を感じている。そして、バッシングする瞬間に自分が生きている実感を感じているのだけど、それは一瞬で、すぐ虚しさが襲ってくるので、生きる実感を感じ続けるためにはバッシングし続けなければいられないというサイクルに入ってしまっているのではないかと思うのです。
【作家の星野智幸さん談、文責=井上伸】

それから、私が事務局を担当したシンポジウム「餓死・孤立死・生活保護をめぐって」の中で、作家で反貧困ネットワーク副代表の雨宮処凛さんは次のように指摘しています。(これも先日ブログで紹介しています)

このまま行くとSOSを発しないまま餓死や孤立死などで亡くなっていく人が増えていくのではないかと危惧しています。

私たちにできることは、貧困当事者に信頼されるに足る社会をつくっていくことです。貧困当事者、生きづらさを抱える人たちが信頼できる社会なのかが、私たちにいま問われているのだと思うのです。いま餓死や孤立死に至ってまでも「助けて」とも言わないままにこれだけの人を死なせている社会なのです。こうした社会のあり方でいいのかと私たち一人ひとりが問われていると思うのです。

生活保護バッシングはどんどん激しくなって来るような気がしています。こうしたバッシングによって、社会で生きていくハードルを上げられてしまうので、自分を肯定するハードルも上がってしまうのです。上がっていくハードルをクリアしていないと「もう生きていてはいけない」という社会になっていくと思うのです。そんな社会は誰にとっても「生きづらい社会」です。とにかく自分が役に立って生産性が高くてより多く利益を生み出せるということを常に証明しないといけないというとても「生きづらい社会」になってしまいます。

生活保護バッシングがもたらすものは生活保護の問題だけにとどまらず、生きることに対して多くの条件を課していくという社会に変わっていくという問題です。生きていていいとされる条件がどんどん厳しくされ、生きていくハードルが上げられていき、私たち一人ひとりが「私は存在していていいんだろうか?」、「私は生きていて迷惑なんじゃないか?」などと思わされてしまうというとても生きづらい社会につながっていくと思うのです。
(作家で反貧困ネットワーク副代表の雨宮処凛さん談、文責=井上伸)

井上 伸雑誌『KOKKO』編集者

投稿者プロフィール

月刊誌『経済』編集部、東京大学教職員組合執行委員などをへて、現在、日本国家公務員労働組合連合会(略称=国公労連)中央執行委員(教宣部長)、労働運動総合研究所(労働総研)理事、福祉国家構想研究会事務局員、雑誌『KOKKO』(堀之内出版)編集者、国公一般ブログ「すくらむ」管理者、日本機関紙協会常任理事(SNS担当)、「わたしの仕事8時間プロジェクト」(雇用共同アクションのSNSプロジェクト)メンバー。著書に、山家悠紀夫さんとの共著『消費税増税の大ウソ――「財政破綻」論の真実』(大月書店)があります。

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