橋下徹大阪市長や片山さつき議員らの重度のバッシング依存症が「助けて」と言えない若者を自殺へと追い込む

  • 2015/8/19
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(※2012年9月11日に書いた記事です)

「自殺予防週間」の初日、WHO世界自殺予防デーにあたる9月10日、NPO法人ライフリンクがシンポジウム「若者の自殺対策を考える」を開催しました。シンポジストの作家・星野智幸さんの話が興味深かったので以下その一部要旨を紹介します。(文責=井上伸)

司会のライフリンク代表・清水康之さんの「多くの若者が『助けて』ということすら言えない厳しい状況に置かれ、死に追い込まれています。なぜたくさんの若者たちが『助けて』とも言えず死に追い込まれているのでしょうか?」との問いに星野智幸さんは要旨以下のように応えました。

この間の生活保護バッシングの問題が象徴していると思っているのですが、日本は異様な社会、異常な社会になってしまったのではないでしょうか。

とりわけ、弱い立場にいる人達にとって、言葉を発するのさえ怖い社会、自分の意見を言うことさえ怖い社会に、日本はなってしまっています。弱い立場の人達が言葉を発すると、たちまち物理的な暴力と、言葉の暴力で寄ってたかってつぶされてしまう。実際にそういうことが起こっているわけです。突然、日本社会がこうなったわけではなくて、この間の自己責任論が強まる中でこうした社会になってきてしまっていると思うのです。

生活保護バッシングを見ていると、言論の世界にいる私でさえ言葉の暴力に恐怖を感じるのですから、普通の人が素直な自分の思いを言葉にすることにさえものすごい恐怖を感じてしまうでしょう。さらに恐ろしいのが、こうしたことが日本社会の問題としてきちんと自覚されないままになっているのではないかということです。

こうした状況は社会の隅々まで行き渡っているので、とりわけ経済力のない若者や子どもたちは、自分の気持ちを素直に出す環境にまったくないと思うのです。社会のそうした流れに逆行することを言うとバッシングされるのはもちろん、こうしたデフォルト状態の社会に対して、何か違和感やこれは違う、おかしいと感じてもそれを表現するという選択肢さえもはや持っていないということです。それぐらい今の日本社会では弱い立場の人達の言論、意思表示に対してものすごいプレッシャーがかかっている社会なんじゃないかと思っているのです。

何をやってもいいのだとなれば若い人はいろいろやれると思うのですが、何もやってはいけないというのが強くて、とくに生活保護バッシングが起こったときにそれが剥き出しになりました。弱い立場にある多くの若者たちが「助けて」と言えないのはこれが大きいと思うのです。

隙を見せたら終わりというような社会で、自分の気持ちを素直に表現するのではなくて、隙を見せないために自分を防御するために、一種の鎧をまとっているような状況で「助けて」とは言えないでしょう。

生活保護バッシングをする側はどうでしょうか。生活保護バッシングをしても自分の生活は良くならないことはバッシングをしている本人も分かっているのではないでしょうか。しかし、そのバッシングをする瞬間にその人達は自分が生きている実感を感じている。そして、バッシングする瞬間に自分が生きている実感を感じているのだけど、それは一瞬で、すぐ虚しさが襲ってくるので、生きる実感を感じ続けるためにはバッシングし続けなければいられないというサイクルに入ってしまっているのではないかと思うのです。

以上が星野智幸さんが話された要旨ですが、このテーマに関連して星野さんは『北海道新聞』2012年7月6日付で「『死にたがる社会』のバッシング」という論考を寄せていますので最後に紹介します。

ご承知のように、日本は年間3万人を超える人が自ら命を絶つ自殺大国である。14年連続で3万人以上の人が、「もう生きてはいけない」「自分は死んだほうがいい」と思って命を絶つ。実際には、そう思ったところで実行に移す人は、何十人、何百人に1人だろう。3万人の背後には、およそ100万人の予備群がいる、と言われているが、生活保護を受けている人が200万人を超えている現在、予備軍の数はその数倍に上るだろうと、私は感じている。生活保護を受けるにいたった人の大半は、1度は自死を考えていると、数々の現場関係者が報告しているからだ。

何百万人もの人が、「生きていけない」「死んだほうましだ」と思いつめている。その人たちに、社会全体が「そうだ、おまえたちは死んだほうがいい」と言い、背中を押そうとしているのが、この1、2カ月の出来事である。人気お笑いタレントの母親が生活保護を受給していた件に端を発した、生活保護受給者バッシングのことだ。

受給者をいくらバッシングしても、この社会は少しもよくならない。そんなことは、バッシングしている者たちも承知しているだろう。では、なぜバッシングするのか。

「生きている価値がない」という個々人の諦念と自暴自棄が積もり積もったこの社会は、震災後、集団として、自らを消す方向へ舵を切ったように、私には感じられる。一人ひとりがはっきりと「死んだほうがましだ」とまでは考えていなくても、無意識のどこかに、「もう終わりにしたい」という衝動が巣くっているのだ。

死にたい気持ちは、飽和すると、自分を通り越して他人に向かうこともある。その典型例が秋葉原殺傷事件だ。自分を無価値だと見なし、自分を消去してしまいたい気持ちは、他人を無選別に消去したい気持ちに簡単に置き換わる。「死にたい気持ち」=「殺したい気持ち」なのだ。無関係の人を殺して何になる、と、秋葉原事件のようなことが起こると、怒りと批判の声が沸き上がる。私もそう思う。そしてその批判は、生活保護をバッシングしている人たちにも、当てはまる。無関係の受給者を死のふちに追いやって、何になるのだ、と。

私には、社会自体の自殺願望が、誰でもいいから消去してやりたいという気持ちとして表れたのが、今回のバッシングだと映る。つまり、「生きていても仕方がない」と感じている者同士が、互いを追いつめているのだ。「死にたい気持ち」=「殺したい気持ち」が急激に膨れあがり、さらにその陰に、=「殺されたい気持ち」が隠されていると思う。自死には踏み切れないが、この社会全体がめちゃくちゃになって滅亡する形で一緒に死ぬのなら、そのほうが楽だ、という欲望。その欲望が飽和してしまったのが、今の日本社会だ。その欲望が、片山さつき議員や橋下徹大阪市長のエキセントリックな言動を支える。

実のところ、死にたい衝動とは、一種の依存ではないか。リストカットで死に隣接することで、かろうじて生を実感し、なんとか生き続けるのと同じだ。その依存が外(他人)に向かうと、バッシングして人が死のふちに追いつめられるのを見てかろうじて自分は生を実感し、なんとか生き続ける、という行為になる。リストカットが行きすぎると、簡単に死の側に転ぶ。同様に、バッシングが行きすぎると、全員が死の側に転ぶ。そのときは、滅亡への熱狂が、ファシズムの嵐となって吹き荒れるだろう。私には、極言を弄する為政者でさえ、その種の依存に陥っている中毒者のように感じられる。

死に足をかけることで、かろうじて生きている社会。なんと殺伐とした社会であろう。私たちはもはや、バッシングなしでは生きられなくなりつつある、重度の依存症患者なのだ。戻る道はただ一つ。「死にたい気持ち」の源を直視することである。

井上 伸雑誌『KOKKO』編集者

投稿者プロフィール

月刊誌『経済』編集部、東京大学職員組合執行委員などをへて、現在、日本国家公務員労働組合連合会(略称=国公労連)中央執行委員、労働運動総合研究所(労働総研)労働者状態分析部会部員、福祉国家構想研究会事務局員、雑誌『KOKKO』(堀之内出版)編集者、国公一般ブログ「すくらむ」管理者。著書に、山家悠紀夫さんとの共著『消費税増税の大ウソ――「財政破綻」論の真実』(大月書店)がある。ここでは、行財政のあり方の問題や、労働組合運動についての発信とともに、雑誌編集者としてインタビューしている、さまざまな分野の研究者等の言説なども紹介します。

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