安倍政権がどう説明しても「戦争法案」で自衛隊が実際にやることは憲法違反の軍事行動・武力行使|青井未帆学習院大学教授

  • 2015/8/10
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月刊誌の仕事で、青井未帆学習院大学教授にインタビューしました。月刊誌の工程上、今国会に提出されている「戦争法制」の条文が判明する前の2015年4月5日にインタビューしたものなので、「戦争法制」の具体的な条文に基づくインタビューにはなっていないのですが、本質的な問題に変わりはありませんので導入部分を紹介します。(※『国公労調査時報』2015年6月号に掲載したインタビューです)

憲法9条を紙切れにし法治国家壊す
集団的自衛権行使の「戦争法制」
青井未帆 学習院大学教授インタビュー

他国では「武力行使」なのに憲法9条の下で可能?

――昨年7月に閣議決定された集団的自衛権行使の容認にもとづいた法案を、安倍政権は5月連休明けにも国会に提出しようとしています。今の段階で、枠組みについてのご意見を伺いたいと思います。まず、大きな柱として「周辺事態法」を改正するとしていますが、これにはどういった問題があるとお考えでしょうか?

「周辺事態法」を改正するというのは、直接的には集団的自衛権の問題ではありません。そのことも含めて、議論の前提からお話ししたいと思います。

昨年の7月1日の閣議決定については、国民の間でも集団的自衛権の行使容認に的を絞るかたちで、随分批判の声が上がりました。私自身も、「閣議決定で決められるものではない」との立場で発言をしてきました。安保関連立法を前にして、気をつけなくてはならないのは、あの閣議決定それ自体は、集団的自衛権の問題だけを取り上げているのではないということです。そして議論の枠組みだけ見れば、憲法9条の下での防衛法制のありかたを継承しているということです。

でも、これまでの議論の枠組みを維持したまま、「重要影響事態法(改正周辺事態法)」や「海外派遣恒久法(国際平和支援法)」等をつくることができるのだろうか? あるいは武力攻撃に至らない「グレーゾーン」事態への対処ということができるのだろうか? この問題を最初に指摘させていただきたいと思います。

まずこれまでの枠組みを確認しましょう。

憲法9条により武力の行使は禁じられています。そのようななかで武力行使を合憲とするためには、二つの議論が考えられます。第一に、例外的に武力行使ができる場合があるとする筋と、第二に、武力行使に当たらないからできるとする筋です。「重要影響事態法(改正周辺事態法)」の問題など、日本が有事の場合以外は、憲法9条の禁ずる武力の行使に当たらないからできるという後者の筋になります。戦闘現場でなければ他の部隊の「後方支援」ができるというのは、一つの例です。

「後方支援」という言葉は、話を余計に見えにくくしているように思います。なぜ「後方支援」であればいいのか? 政府は、憲法で禁じられている武力行使を直接は行わないから「後方支援」はできるのだと説明します。

そして、「後方支援」する地域について、「周辺」という言葉が外されようとしていますが、もともとこの言葉は地理的な概念ではなかったと強調するわけです。しかしこれは、「日本の平和と安全に重要な影響を与える事態」であると認定されれば世界のどこにでも行って、「支援」できる枠組みになる。憲法9条の下で本当にそんなことができるのでしょうか?

武力行使ではないという前提ですが、それは日本独自の説明なのであって、「後方支援」というのは、他の国では兵站活動であり武力の行使に当たります。直接戦闘が行われていないところまでなら世界中どこにでも行けるということになってしまった時に、結局のところは武力行使をしていると見なされることになるのではないか? そもそもの枠組みは維持すると言いながら、枠組みを大きく超えてしまったり、なし崩し的にこれまでの議論の枠組みに破綻をきたすようになったりするのではないか。形式的にはともかくも、実質的に見れば、これまでの議論の枠組みの中でできるものではないと思うわけです。

「PKO=非軍事」は、もはや通用しない世界

――自衛隊を海外に「派兵」するとも呼ばれている「恒久法」をつくるという問題はどう考えればいいのでしょうか?

「重要影響事態法(改正周辺事態法)」と「海外派遣恒久法」は、法的に言えば日本は平時で、援助対象が有事の場合です。それぞれの目的が前者について「日本の平和と安全」、後者について「世界の平和と安全」ということで違う法目的だからという理由が、分離して法制化される理由と示されていますが、その境目は曖昧です。

「改正PKO法」は、日本も援助対象国も平時の場合です。ただ、「駆けつけ警護」や「任務遂行のための武器使用」によって武器を使用しうる場面も広げられます。今のPKO(国連平和維持活動)と昔のPKOは違うのです。非軍事であるということはもはや通用しない世界になっている。PKO等だから軍事行動ではないという認識を持っている方がたいへん多いのですが、今はPKOといっても、軍事的なところに非常に近くなってもいるということを押さえておく必要があります。

また、米軍の部隊等の武器防護について、これは安保法制懇報告書では集団的自衛権の話としてまとめていましたが、いまでは武力攻撃に至らない侵害への対処として位置づけられています。つまり、平時の話です。
そのような政府の整理は非常に概念的で形式的で、結局のところは集団的自衛権行使にとても近くなるものも含まれています。武力の行使ではないと説明しながら武力の行使に限りなく近づいていく。いくら国内向けの説明のなかで「憲法の下で可能です」と言っていても、後方支援活動や武器等防護について、場合によってはそれが集団的自衛権の行使だという評価が国際法上、なされるかもしれません。

たとえばアメリカなども、国連での決議を得られないときであっても、イラク攻撃のように自衛権の行使として行ってきています。「憲法で禁じられている武力行使に当たらないからできるのだ」と言いながら、じつは限りなく武力行使に近い内容を行えるとしているのではないか。形式的というか操作的というか、そういう側面を持っていると思います。

憲法が禁じている武力行使に当たらないからできるとさえ説明できれば何でもできてしまうのでしょうか? 軍事に頼らない平和という理想を掲げた憲法9条の下で、そんなことが可能なのでしょうか? そのことを改めて振り返らなければいけないと考えています。

集団的自衛権行使は防衛出動の延長だから可能?

――集団的自衛権行使そのものはどのような形でしょうか?

閣議決定の時、あるいはその後の7月14日と15日の国会集中審議の時は、集団的自衛権について議論が随分されました。しかし、今回の与党協議ではあまり議論されませんでした。少なくとも報道等を通じて見る限り、与党協議がどういう内容で集団的自衛権の問題を扱ったのかがあまりよく分からない。「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」へ対応するための解釈として、いわば唯一解として示されたわけですから、それ以上にもそれ以下にもできないものです。だとすると、そのまま規定の条文上に落とし込む他ないと考えているのかもしれません。

そうした時に、そもそも集団的自衛権の行使というのは、先程来使っている議論の枠組みでいえば、「憲法の禁ずる武力行使に当たるのではあるが、例外的に行使が許される場合」という説明なので、防衛出動と同じ延長で捉えられるというのが今の政府の考えといえます。外部からの武力攻撃に対して反撃する、その延長で集団的自衛権の行使は理解できるということです。

しかし、そんなことができるのでしょうか? どういう事態が、武力行使の「新三要件」を満たすのでしょうか? この疑問が依然として与党協議においても晴れなかったと思います。

「新三要件」=「武力行使の例外」として可能?

――武力行使の「新三要件」の中には集団的自衛権の要件も入るという閣議決定を7月にしましたよね。どのような法制化になるか見えません。

そうですね。これまでの三要件は自衛権発動のための要件でしたが、新たには武力行使をするための要件であるとして、少し性格付けも変わりました。第一要件は、昔は「我が国に対する急迫不正の侵害があること」をメルクマールにしていましたが、7月1日の閣議決定により、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国による武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」というように変わりました。第二要件は「これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないとき」で、第三要件は、「必要最小限度の実力を行使すること」です。

そして、先ほども言いましたが、この「新三要件」をいじることは難しいのではないかと思います。7月1日の閣議決定を超えてしまう言い換えもできないし、元に戻って初期の目的を達成できないということでも困る。この問題をどのように条文に落とし込むかということは、あまり広がりのない議論なのではないでしょうか。

私たちとすれば、どのように条文化されるのかということもともかく、本当にそれが「憲法が禁じる武力行使の例外」として可能なものなのかということを、元に戻って考え直す必要があるのではないかと思います。なんのために平和主義といってきたのか? 本当に憲法9条の下でそんなことが可能なのか? そういう事態を誰が認定し得るのか? そうした問題をきちんと詰めずに法制化していい問題ではないということです。

いずれにせよ、良かれ悪しかれすべては憲法9条の下でやっていることなので、憲法9条を無視するというのはやはり権力行使の方法として間違っています。憲法があるのに憲法がなかったことにしていることと結果的には同じになりますから、そうした方法自体が根底から問われなければいけないと思います。

自衛隊がやることは日本国内での説明がどうであれ
もはや軍事行動に極めて近づいている

――集団的自衛権の問題と対米支援の問題との関連はどう考えればいいのでしょうか?

自衛隊がやってはいけないことは、憲法に明記されている武力の行使です。ところが、自衛隊がやってはいけない武力行使の中にも一点だけできることがある。それが例外として許される武力行使で、自衛隊法上、防衛出動に当たるという理解がされてきました。それ以外には、周辺事態法や旧テロ特措法、PKO法などに定められた行動については、武力行使に当たらないからできると説明されているわけです。

前者の「例外としての武力行使」を広げることの当否について、昨年の7月1日の閣議決定をめぐっては議論が巻き起こったし、国会でも主たる焦点が当たったのですが、今の与党協議ではむしろ後者の、武力行使に当たらないからできるとしている筋の方の議論が主でした。国際平和支援法をめぐる、自民党と公明党とのあいだで焦点化がはかられた「歯止め」論に国民の視線もうまく奪われた感じがします。

でも結局、自衛隊が実際にやることは、日本国内での説明がどうであれ、もはや軍事行動に極めて近づいている。自衛隊が何をできるのか、何をできないのかという問題は、日本の場合は、そもそも自衛隊にはできないことが何故にあるのかという議論、つまり憲法で安保政策に限界を課していることの意味、に立ち返らざるを得ないのではないかと思います。

憲法9条の下でできないものを行う「歯止め」?

――マスコミ報道によると、公明党は「歯止め」をかけるとして、三原則([1]国際法上の正当性、[2]国民の理解と民主的統制、[3]自衛隊員の安全確保)を主張しているようです。これらは本当に「歯止め」となり得るものでしょうか?

こうした「歯止め」がまったくないとしたら、政治は無制限に他の国からの求めに応じて支援することに(国際法上の評価はともかく)なってしまう危険もあるので、そういう意味では必要であると言えます。役に立つものかは別にして。

これについても憲法9条があるのですから、本来の議論は、「歯止め」の問題にとどまるものではないはずです。こうした三原則があったとしても、これから行おうとしていることは本当に憲法9条の下でできることなのか? 憲法の平和主義はどういう意味のものだったのだろうか。実質的な議論こそが重要のはずでしょう。いくら「歯止め」といっても、もともとが憲法9条の下でできないものであったならば、意味のある議論にはなりません。

「歯止め」三原則の文言だけ見れば穏当といえば穏当です。しかし、それが果たして実効力のある「歯止め」に本当になるのかという議論はまた別途必要だろうと思います。

実力統制における2つの筋とも難しい局面に

――青井先生は、実力統制の視点は2つの筋([1]憲法9条の論理による統制、[2]文民統制の仕組み)を分けて考えるべきと指摘されていますね。

憲法9条ではもともと、武力行使はすべてだめという文言になっていて、武力も持てないというものです。憲法9条の下で自衛隊を持つにあたって、乗り越えなくてはならない理屈の壁はとても高いものでした。政府解釈は、全面的に武力行使の解禁をはかったのではなく、一点突破しようとしたものだったのです。

「憲法は戦争を放棄し、戦力も保持しないとする。交戦権も否認した。しかし、国家である以上は当然に、自らを自衛しえなければならない。自衛のための必要最小限度の実力は、憲法の禁じる『戦力』には当たらないのだ」。こういうロジックでした。

「これだけはできるはずだ」という一点で憲法上の制約を一部突破したのです。武力行使はできないのが憲法の定めだけれど、外部から攻撃があった時は唯一例外的に反撃できるのだという理屈です。たとえていえば、ドリルで穴を開けるような議論だったのです。

7月1日の閣議決定は、その一点だった穴を開ける議論だったのを、いつの間にか広げるということになってしまっている。しかし、それは理屈の上では、きわめて難しいことです。外部からの武力攻撃があったかなかったかということは、多くの国民がある程度共通して認識できると思うのですね。細かいことをいえばできないという議論ももちろんありますが、外部からの攻撃があったかなかったか、武力行使ができるかどうかというレベルでいえば、比較的に多くの国民が共通の土俵で、「あるかないか」(1か0か)の判断はできたのだと思います。

ところが、集団的自衛権はどうだろうか。これは「あったかないか」を多くの人が認識できるかということではなく、外交上のあるいは経済的な権益や他国との「同盟」関係など、様々な要素を衡量しないと、行使するべきかどうか、答えはでてこないということになります。これまでは一点突破型の論理で1か0かという発想が可能であったところに、多要素衡量型の発想に転換させられたといえます。もはや、かつてのような、論理上の「一点」は統制の力を減殺されているといえます。

では私たちに何が残されているのでしょうか? 憲法9条はまだあります。それに、従来の枠組み自体は、安保関連法の検討において、いまだ維持されてはいます。でも、先ほど述べたように、かつてのような方法での論理による統制がかなり難しくなっている。私たちの手元にある憲法には、そもそも軍隊の規定がありません。ですので、軍隊をどう統制するかという規定もない。そうすると、憲法より下のレベルでどう実力を統制する仕組みがあるのかということがとても重要になってくるのですね。その仕組みの重みが相対的に上がるとも言えるでしょう。

それが、日本では文民統制あるいはシビリアンコントロールと言われてきた領域です。しかし、これもまた不十分な状況にありますから、論理による統制も仕組みによる文民統制も、どちらも今、非常に難しい局面に置かれていると思います。

国際法と国内の憲法を混同してはいけない

――自衛権は憲法に書いていなくてもどこの国にでもあるのだから、自分の国が攻撃されたら抵抗するのは当たり前だという議論があります。その点についてはどう考えればいいのでしょうか?

自衛権というのは国際法上の概念ですので、憲法という国内の話と国際の話ではフェーズが違うのです。だから国際法上、自衛権があるかないかという話と、国内法でそれを使うか使わないかという話は違います。ですので、簡単に「国際法上は自衛権があるから国内で使わなければいけない」ということにはならないし、逆に自衛のためだとして行っても、国際法上、それが合法と評価されるかは別の問題です。

――そうするとそれは国際法を使って武力行使へと突破しようとする方便ということになりますか?

仮に戦争ということになると、好むと好まざるとに関わらず国際法の話になってしまいます。国連憲章は、武力行使を原則として違法化しています。でもその例外として、攻撃された時の個別的な自衛の措置や、集団的自衛権、集団安全保障は認めているのですね。ですから、他国に対して武力行使をした時には国際法の世界で評価がなされる。それは憲法とは違うはずなのに、混同する動きがあるのだと思います。

井上 伸雑誌『KOKKO』編集者

投稿者プロフィール

月刊誌『経済』編集部、東京大学教職員組合執行委員などをへて、現在、日本国家公務員労働組合連合会(略称=国公労連)中央執行委員(教宣部長)、労働運動総合研究所(労働総研)理事、福祉国家構想研究会事務局員、雑誌『KOKKO』(堀之内出版)編集者、国公一般ブログ「すくらむ」管理者、日本機関紙協会常任理事(SNS担当)、「わたしの仕事8時間プロジェクト」(雇用共同アクションのSNSプロジェクト)メンバー。著書に、山家悠紀夫さんとの共著『消費税増税の大ウソ――「財政破綻」論の真実』(大月書店)があります。

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