安倍政権下でパワハラが1.3倍増と史上最悪、労働法制の全面改悪で人が壊れてゆく職場をつくる安倍政権、パワハラを許さない職場づくりと人間尊重の労働法制へ|笹山尚人弁護士

  • 2016/6/29
  • 安倍政権下でパワハラが1.3倍増と史上最悪、労働法制の全面改悪で人が壊れてゆく職場をつくる安倍政権、パワハラを許さない職場づくりと人間尊重の労働法制へ|笹山尚人弁護士 はコメントを受け付けていません

時事通信の報道です。

パワハラ相談、過去最多=15年度6.6万件-厚労省
時事通信 6月8日

厚生労働省が8日公表した2015年度の労働紛争に関する調査結果によると、民事上の労働相談のうち、上司による暴言や無視などの「いじめ」が前年度比7.0%増の6万6566件と過去最多となった。厚労省は「職場のいじめは増加傾向が続いている。パワハラに関する指導や啓発を徹底したい」(労働紛争処理業務室)と説明している。

民事上の労働相談は、計24万5125件で2.6%増えた。「いじめ」以外では、「解雇」は3万7787件と3.0%減ったが、「自己都合退職」は8.7%増の3万7648件と増えた。

 

この報道の元データの厚生労働省「個別労働紛争解決制度の施行状況」から「いじめ・嫌がらせ」相談件数の推移のグラフを作ってみたのが以下です。

上のグラフにあるように、安倍政権下でパワハラは1.3倍増(2015年度の12年度比)と史上最悪を更新しています。

このパワハラ問題で2年前になりますが、笹山尚人弁護士にインタビューしていますので紹介しておきます。

パワハラを許さない職場づくりへ
労働組合は安全衛生の徹底を
笹山尚人弁護士インタビュー

人事院に寄せられる国家公務員の苦情相談でもっとも多いのがパワーハラスメント(以下パワハラ)の問題で、しかも年々増加しています。国公一般に寄せられる労働相談も、半数近くがパワハラ問題になっています。いま職場で増加しているパワハラ問題について、笹山尚人弁護士にインタビューしました。(※聞き手=国公労連 井上伸、西口想)

職場で殴る蹴るのすさまじい暴行
26歳の青年「あごに、穴があいたんです」

――笹山先生は、『パワハラに負けない!~労働安全衛生法指南』(岩波ジュニア新書)、『それ、パワハラです~何がアウトで、何がセーフか』(光文社新書)、『人が壊れてゆく職場~自分を守るために何が必要か』(光文社新書)などパワハラに関する新書を数多く執筆されています。最初にパワハラ問題に関わるきっかけなどについてお聞かせください。

私自身がパワハラ問題に関わった最初のケースは、まさに有形力の行使=暴力によるものでした。それは、「ヨドバシカメラ違法派遣暴行事件」と言われているもので、ヨドバシカメラで働いていた派遣労働者の青年がヨドバシカメラの社員と派遣元の派遣会社の社員から二重に暴力を受けた事件です。その青年は、「お前にヨドバシの便器をなめさせてやる」との暴言を浴びせられ、殴る蹴るのすさまじい暴行をふるわれて、3週間もの入院を必要とする肋骨骨折等の怪我も負い、刑事事件にもなった大変深刻なものでした。

それから、私が最初に出版した『人が壊れてゆく職場』(光文社新書)の中で紹介しているのですが、広告等のデザインを制作販売する会社で、26歳の青年が上司に殴られて「あごに、穴があいた」「その穴から、栄養ドリンクが漏れた」という事件で、この職場でも、社員を叩いたり、蹴ったりすることが日常茶飯事になっているというケースでした。

日本という国は平和で豊かな社会のはずなのに、職場に暴力が蔓延しているということに、私自身、当初は本当に驚いていました。これらの事件は時期的にいうと2003年から2006年頃です。今でも暴力的な事件がときどき出てきますが、こうした社内暴力はパワハラが社会問題になる以前から存在していたのかなと思います。

次に2005~2006年頃から多くなってきたのが、言葉の暴力による事件ですね。言葉の暴力も、人格的な侮蔑がダイレクトに行われるケースがたいへん増えてきたと思います。典型的な例としては、医療機関の中で「会社の言うことが聞けない奴は辞めろ」という言葉の暴力が頻繁に行われていたという事件がありました。以前は人格そのものに対する侮蔑をストレートにぶつけるケースが多かったのですが、最近は、仕事の結果に引きつけて「だからお前はダメなんだ」と人格侮蔑に発展させるパワハラが増えています。こうした形で言葉の暴力が退職強要になっていくケースが非常に多くなっていると思います。

非正規雇用の増加がパワハラの背景に?

――そうしたパワハラが職場で増えている原因は何でしょうか?

私自身が一番強く感じているのは、やはり非正規雇用が増えたことです。暴力的な事件が以前からあったということは、もともと日本社会のどこかに暴力を容認するような風土があったのではないかと思うのですが、ここまで社会問題化するほどになった原因は何なのか。どこから壊れ始めたかと考えると、やはり1980年代くらいからだという感じがするのですね。高校や大学を出て社会に出た人が「会社の中で真面目でありさえすればきちんと育てていくよ」という企業風土があった時代から、そうではなく即戦力だという時代になってしまった。その状況の中で多くの職場が雇用の非正規化を強めていきました。そして、労働者が人ではなく物のように扱われる状況が生まれた。それがだんだん社会に蔓延するようになったということが根本的な原因ではないかと思います。

その典型的な例だと私が思うのは、派遣先における派遣労働者の扱いです。民間の大企業でいうと、派遣先で派遣労働者を扱う部署は人事部ではありません。購買部であったり資材部であったり物品を扱う部署が派遣労働者を扱います。そうすると派遣労働者の人件費を最終的にどこで決めるかというと、それもやはり購買部や資材部なのです。こうした対応が続いた結果、派遣先にとっての派遣労働者は「派遣さん」であって名前のある人間として扱われなくなったわけです。加えて派遣会社も「あなたはウチの会社のスキルなんですよ」と言う。つまり人ではないんですよと言うのです。そうして何か不具合が生じれば、部品を換えるみたいに「次の派遣さんに変えてください」と人間を物扱いする日本社会が、1980年代以降どんどん広がっていきました。その意味で、1985年にできた労働者派遣法がどんどん広げられていったのは、雇用の非正規化の典型的な時代の流れを象徴しています。こうして、雇用の非正規化が強まる中で「人じゃなく物なのだから大事に扱わなくていい」という風潮が広がったのです。そうすると、職場で何か歪みが発生した時にそれを弱いところにぶつけていくようになったというのが、いまパワハラが増えている最も根本的な原因ではないかと考えています。

パワハラやいじめが生じた場合、会社側はよく「あいつが空気を読めないから悪い」といじめられる人に責任があると言うのですが、そうではないと私はいつも思うのです。ある人がいじめられて、その人が仕事を辞めたら今度はまた別の人をいじめるということが起こる。パワハラ、いじめが生じる職場では、必ず人を変えていじめが連なっていきます。ですから、いじめられる人に問題があるわけではなく、その“職場が抱える闇”の問題なのです。私はパワハラ問題をそのように捉えています。この“職場が抱える闇”はどこから来るのか? それはやはり人間を大事にしない風潮であり、雇用の非正規化というものがバックボーンとしてあるのではないかと、今はそのように理解しています。

パワハラは人格権を侵害する行為

――そもそもパワハラは法的にはどう考えればいいのでしょうか?

法的な意味でパワハラとは何かというと、結局は人格権を侵害する行為のことです。厚生労働省が2年前にまとめたワーキンググループの定義があります。その定義では、「職場のパワーハラスメントとは、同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為をいう。上司から部下に行われるものだけでなく、先輩・後輩間や同僚間、さらには部下から上司に対して様々な優位性を背景に行われるものも含まれる」とあり、基本的にはこの認識で捉えて構わないと思います。

この定義はその通り理解していいと思うのですが、その行為が何から何まで法的に捉えられるかというと難しいところがあります。特に裁判所で事件を扱っていると、裁判所が認めるパワハラ、つまり法的に認められるパワハラはものすごく範囲が狭い。裁判所では、「ここまでやると労働者が一般的に持っている人格権というものを重大に毀損したと言える行為をパワハラと呼ぶ」ということになる。ですので、私は、パワハラの捉え方が2段階になっているように思うのです。厚労省の定義で捉えられるパワハラは、その人が職場で疎外感を味わったり、すごく働きにくいなと感じさえすれば、ある程度パワハラと捉えていいという部分を含みます。それを厚労省は類型化していると思うのですが、そこに該当するからといって法的なパワハラにはなかなかならない。狭義のパワハラというものが裁判の世界にはあって、そのハードルが以前に増して高くなっているということを実感しています。ですから法的に捉えられるパワハラというのは、すごく難しい問題があるのです。

長時間労働とパワハラの人格権侵害は法的に同じ

――笹山先生が取り組まれたパワハラ事件の具体的な事例ですが、たとえばSHOP99の清水文美さんの事件があります。著書の中では長時間労働もパワハラにあたるのではないかと書かれていますね。

SHOP99は現在ローソン100になっているコンビニですが、店長をしていた清水さんが異常な長時間労働でうつ病になって、残業代の問題と、うつ病になったことに対しての慰謝料を請求した事件です。今日のテーマとの関連性でいうと、慰謝料請求の部分がそもそも会社が取るべき責任なのかどうかということが問題になったケースです。

結論的には、裁判所は清水さんの長時間労働を安全配慮義務違反だと捉えました。一般的に長時間働かせるということが直ちに安全配慮義務違反になるわけではありませんが、職場の中で使用者との社会的接触関係がある時は、管理の立場にある上司あるいはその情報をさらに吸い上げている会社が、職場の労働条件や労働者個人の働きぶりなどを捉えて健康上問題があると考えられる場合、それを除去するための具体的な対処を取らなければいけません。

清水さんの場合、2007年8月において月間350時間を超える長時間労働を強いられていて、その長時間労働の事実は上司も把握していたという事実がありました。そうである以上は、上司は清水さんに有給休暇を取らせたり、シフトを精査して減らすというような対応を具体的に取るべきだったのに、「休みを取ろうね」という一般論しか言わなかった。それで安全配慮義務違反があると判断されたわけです。

この点は裁判所としても事件として分かりやすいのか、会社の怠慢に対してものすごく怒りを露にした内容の判決文でした。会社として長時間労働について従業員の健康と実態を把握すべき義務があったにも関わらず、さらに夏季休暇の制度があるのにそれを推奨もしていないので「会社の怠慢は明らかだ」という形の判決文を書いたのです。長時間労働と健康の関連については過去に事例がたくさんあり、裁判所も比較的把握しやすいので、そういう形で判決が出されています。それで安全配慮義務違反で清水さんがうつ病になったということで、最終的に慰謝料が100万円とされました。

しかし、それでは清水さんの権利の何が侵害されたのか。判決はそれを明示していませんが、やはりそれは人格権ということになると思います。つまり安全配慮義務違反が起きた時に、労働者の何が損なわれるのかということです。死んだ場合は命そのものになってしまいますが、そこまでいかない場合は人格権という形で法としては捉えざるを得ないのだろうと思います。そうすると、安全配慮義務違反があり、人格権侵害があった場合に、法的な責任を会社が取らなければいけないという構造は、パワハラなど言葉の暴力事件と何も変わらないわけです。

つまり、長時間労働の違反があって人格権侵害が発生したケースと、パワハラなど言葉の暴力があって人格権侵害が発生した場合で、法的スキームは変わらない。ですから、私としては長時間労働の方もパワハラだと捉えることにそれほど違和感を感じないわけです。法律家は特にそうだと思いますね。それは社会的にみても、長時間労働自体を放置していくことは命と健康を削るということがほぼ共通認識になっているので積極的にそれを是正しないという態度が見受けられる時は、それはパワハラだと呼んでいいのではないかというのが私の意見です。

「上司に歯向かう奴はいらない」

その他にも典型的な言葉の暴力事件ということで2つのケースを紹介します。

ひとつは先ほどお話しした医療機関の事件です。これは業務とは関係のない手酷い言葉の暴力が連日連ねられたというタイプの事件で、「お前はジャイアンみたいに顧客をバカにしている」とか「上司の言うことが聞けない奴は会社にいる資格がない」ということを連日浴びせられた。それが連なって彼はうつ病になって、試用期間中だったのですが休もうということで電話をかけたら、たまたまその上司が電話に出た。それで休みたいという連絡だけだったのに4時間に渡って電話口で言葉の暴力を受けたというケースです。その4時間の電話の中で、「お前のように上司に歯向かう奴はいらないんだ、辞めちまえ」という言葉の暴力が連ねられた。

この事件については、裁判官が「この種の事件はたくさん担当しているけれど、ここまで酷いと思ったのは2例目だ」と言ったくらい、非常に印象的な事件でした。そして、その言葉の暴力は会社としての安全配慮義務違反になる。社会的接触関係を持っている労働者に対して会社は働きやすい職場を実現していく法的義務があるにも関わらず、労働者の人格を揶揄する言葉を連ねることによって、またそのことを放置して是正しないことによって労働者の人格権を侵害したということで、最終的に慰謝料が発生する事案だと判定されました。そしてその部分を加味した話し合いという形で解決したケースでした。

言葉の暴力によるパワハラの事件に関わっていて、ひとつ難しいなと思うことがあります。たとえば裁判官が「私が酷いと思った2例目である」というふうに言った場合、それはあくまで裁判官の印象ですよね。裁判では裁判官の印象で決まってしまうという部分が結構あるのです。いろいろなパワハラ事件に関する裁判所の判決を見ていて思うのは、人格権を侵害しているというところまで持っていくまでの言葉づかいとして、「業務としての指導の範疇を超え」とか「社会的相当性を逸脱している」という言い方をして「違法である」と認定するのですが、ではどういう時に業務の指導の範疇を超えているといえるのか? あるいは社会的相当性を逸脱しているといえるのか?ということについては、詳細に検討した判例はおそらくないと思います。

結局、どういう場合にそうなってしまうのかということは誰にも分からないので、裁判官の印象ひとつで決まってしまう。結局は「常識的にみて酷いよね」というケースでないとなかなか認められないのですね。この事件がまさにそうでしたが、誰がどう見ても酷い言葉を連ねられているケースで、かつ、そのことについてしっかり証拠が残っているケースでなければ、裁判所は責任を肯定しないという傾向にあると思います。では、そこまでいかない場合や証拠がない場合はどうするのかという事例が現に出ていますので、そうした時が非常に悩ましいのです。

「成果が上がっていない」と責めて辞めさせる

次にその変形バージョンということで、『パワハラに負けない!』(岩波ジュニア新書)の最後の方で組合絡みの事件として紹介したケースです。この種のケースが最近は最も悩ましいと思いますね。業務に関連した叱責になる場合なのですが、仕事ができない、あるいは会社として目標にしている成果を上げていないと考えられた時に、そのこと自体を捉えて責める。実際は目標としている業績自体が労働者にとっては実現不可能な場合も多いわけですが、それでも業務命令したことに対して結果が出せていないじゃないかということで、労働者自身が「責められても仕方がない」という状態に陥ってしまう。その中で業務の範疇を超えるか超えないかという言動が続くというケースです。そして最終的には労働者から辞めたいと言わせる。そうしたケースが最近は多くなっていると思うのですが、この種のケースが最も悩ましいと思いますね。

これらの事例はすべて正社員のケースですが、特に民間ではPIP(パフォーマンス・インプルーブメント・プラン=成績改善計画)を使うケースも最近増えています。成績が上がっていないということをPIPという特殊な観察期間と業務プロセスを取ることによって、客観的にいかにもできていないかのような装いをつくった上で責め立てるわけです。それで「できていないのだから辞めて当然だよね」という対応をして、決して会社側から辞めろとは言わない。本人から辞めたいと言わせるのです。そういう形でどんどん手が込んできているのです。
私が担当したケースでは、上司に責め立てられていた依頼者の方が、ある時お客さんに迷惑をかけてしまったということで辞表を出したのですが、労働組合の支援でそれを撤回することになりました。訴訟になって、最終的には上司の言動についても責任を追及し、結果的に彼は職場に戻ることができたのです。労働組合の力で職場に戻せたわけですね。ただ、会社は最後までパワハラは認めなかった。そういうケースもありました。

言葉の暴力への対抗として、「証拠化」の課題

――言葉の暴力について証拠を取るのが難しいということですが、本人がICレコーダーで証拠を取ってもいいわけですね?

そうです。ICレコーダーを活用することについては、私自身、何十回と使ってきましたがそれが裁判所で問題視されたことはかつて一度もありません。私は労働者が身を守るためには必要な方法だと考えていますので、皆さんにもお勧めしています。

――職場の同僚から証言を得られないというケースは、やはりそういう職場だからこそパワハラが起こりやすいという構造になっているということでしょうか?

過労死の事件が起き始めた時代のときから、職場の同僚から証言を得られないということはありました。ただ、その頃と意味合いが変わってきているのかなと思うのは、昔はその人の働きぶりがどうだったのかを聞きたい場合、職を失いたくないという動機で証言を断られることが一番多かったのです。今もある種の職場ではそういうところも多いと思いますが、最近はそうとばかりも言えなくて、面倒なことに関わるのは嫌だという感じの方が多いように思います。パワハラが起きる職場というのは、決してその職場自体が団結しているわけではありません。やはりどこかに歪みがあってパワハラ被害が起きる。直接の被害者ではない人たちも、決してその職場が良いとは思っていないのですね。それで嫌気がさして辞めてしまう人も多い。辞めてしまった人に接触すると「いいですよ」ということで話には応じてくれます。私どもが会いに行きますと言っても「いいですよ、事務所に伺います」と言って来てくれる人も結構いるくらいです。ところが、「そのことを証言してくれますか?」「裁判所に来なくてもいいので、お名前を出すことになりますがペーパーをつくらせてもらえますか?」と尋ねると尻込みを始めるケースがすごく多いのです。

それがなぜなのか理由を聞いていくと、共通しているのは「面倒なことは嫌だ」「余計な争いに首を突っ込んで自分が矢面に立ちたくない」という理由が多い。そういう意味でいうと、人助けができない社会になってしまっているような気もします。もしくは、その人たちも今生きるのが精一杯で、そこまで善行を残す余裕がないということなのかもしれません。

メンタル疾患の逆説的状況

――国公一般に寄せられる労働相談で、パワハラを受けている本人がメンタル疾患になっているために、事態の把握さえ難しいケースも増えています。

メンタル疾患になっている方の場合は、その方自身が過去に向き合って、どんなことがあったのかを話せるようになるまでにすごく時間がかかります。そうしたケースがすごく増えていますね。逆に変な矛盾なのですが、一般的なパワハラの定義には該当しそうなのだけど酷い人格権侵害まではいっていないという場合は、比較的自分の問題を客観的に捉えられるので、相談しやすいのですね。だからそういう方はたくさん相談に来る。そして、どんどんしゃべってくれるのはいいのですが、私たちにしてみれば、到底裁判官が認めるとは思えないレベルにあるので、聞くことだけしかできないことが多い。そういう方のパワハラ被害は集まるのですね。でも本当に酷いパワハラ被害ほど集まらない。ですので、そういう構造があるという意味でも、パワハラの問題は深刻なのだと思います。

国家公務員の職場でも安全配慮義務を
労働組合が普及・徹底していく必要がある

――国家公務員の職場でもパワハラが増えています。どう対応していけばいいのでしょうか?

まず、労働法を生かしていくということです。それとあわせて労働組合が頑張る必要があるということです。労働法を生かすというのは、労働者だけが労働法を活用するのではなく、雇っている使用者や事業者の側も労働法を考えなければいけないということです。労働契約法が適用される民間企業の職場であればもちろんそうですが、公務の職場であったとしても、労働法のひとつの考え方として安全配慮義務というものを普及・徹底させることはすごく大事な取り組みです。もともと安全配慮義務が日本社会で初めて認められた事件は、国家公務員の事件だったのです。自衛隊員の事件で、労働法の考え方がそこから定着していきました。

安全配慮義務がまだ判例法理にすぎなかった時代によく言われていたキーワードのひとつは、「社会的接触関係」です。民間企業でも公務職場でもある種の事業を行う時、その職場で支配力を持つ立場の人や組織は、そこに体を持ち込んで仕事に従事せざるを得ない労働者の命と健康に直接関わるわけです。ですので、そうした社会的接触関係を持っている以上、その関係に支配力を持っている者が労働者の身の安全を図る措置をとるのが当然だというのが、安全配慮義務の考え方の原点なのですね。

たとえば、建設現場で元請けが下請け労働者に対して安全配慮義務違反をなぜ負うのかといえば、「社会的接触関係」があるからです。契約関係があるからではなく、元請けがその職場で下請け労働者を含めて支配しているからです。だから元請けが責任を取りなさいという発想になるわけです。それと同じことで、労働契約法が適用されるのか、労働安全衛生法が適用されるのかということとは直接関係なく、労働法の根本的な発想として、「社会的接触関係」で人が使われている場面では、その人の身の安全を図るのはその職場を支配する者の責任ですよという発想が根本的にあるのです。

ですから、その意味での安全配慮義務を尽くせということは、公務職場や民間企業を問わず、どんな職場でも言えることなのです。国家公務員の職場でもそれは同じです。そういう意味でいうと、その点を労働者はもちろん労働組合も、それを負っている事業者自身、つまり国公の場合は政府も認識をして、それをどう職場で発展させていかなければいけないのかを考える必要があるのです。

そして、大事なことは、どんな職場においても安全配慮義務を普及・徹底させるためには、やはり安全配慮義務の考え方自体を管理職がきちんと学んでいかないといけないのです。一番加害者になりやすいのは部課長級の管理職ですから、その人々が今何がパワハラとして問題になっているのかをよく学んだ上で、どういうことに気をつけなければいけないのかを考える研修の機会を設けることも、対処方法のひとつです。

労働法をよく学ぶということでいえば、労働法の直接の適用か適用でないかということはともかくとして、国家公務員の職場でも考え方そのものを否定してはいないと思います。労働者として、人間としての命や尊厳を守っていきましょうという考え方は、労働基準法にしても労働安全衛生法にしてもあるわけで、それを具体化していくことが必要です。

参考になるのは労働安全衛生法で、地方自治体は直接適用になっていることもあって安全衛生委員会をつくるような取り組みが一生懸命推進されています。安全衛生委員会がどう実現されるべきかということは地方自治体が最も進んでいると思います。

国家公務員の場合も、地方自治体の取り組みを研究するというのもひとつ必要なことだと思います。そして安全衛生委員会で研究したことが自治体の要項に反映したりしているわけです。それを国家公務員の場合は人事院規則に反映していくというような形で考えていくというやり方もあると思います。そういう意味では労働基準法の考え方もそうだし、労働安全衛生法の考え方や組織の守らせ方もきちんと学んで使っていく、ということが参考になると思います。

では、それをどう推進していくのか? やはり中心になるのは労働組合です。個々の労働者がいくら「やって欲しい」と言っても、角が立ってしまったり力が及ばないケースが多いでしょう。ですので、そこは労働組合が実現に向けて要求を掲げ、当局と話し合っていくということが基本的な推進力になるし、結局はそれが近道です。ですから、労働者は、労働組合に団結をして、自分たちの抱えている問題を労働組合に届けて反映させていくし、労働組合からの情報もきちんと受け取っていく。そういう本来の意味での民主主義が労働組合の中で行われていくと、パワハラ問題に対しても労働組合が力を発揮できるのだろうと思います。

人間尊重の労働法を全面的に敵視する安倍政権

――現在ブラック企業が広がっていて、学生にまでブラックバイトという形でパワハラが及んでいる状況です。そうした中で、安倍政権は労働法制の全面改悪を狙っています。長時間労働がパワハラとも取れるとなると、残業代ゼロ法案・過労死促進法案と呼ばれるような労働法制改悪は、政府自身がパワハラを促進しようとしているともいえますね。

そうですね。私はそう考えています。安倍政権が狙っていることは首相官邸のホームページにメニューとしてたくさん掲げられています。しかも優先順位をつけて、どこからどのように手をつけるのかということをかなり計画的に進めている面があります。そうした全体を見ると、残業代ゼロ法案というのは安倍政権の狙いの一端に過ぎず、労働法全体を敵視して、労働法を骨抜きにしていくというのが安倍政権が最終的にやりたいことなのだと分かります。

労働法の中で、根源的な規制のひとつが労働時間に対するものです。労働者が人間らしく生活していくためには、今の労働基準法で考えられている1日8時間労働というのが、根源的な規制なのです。1日24時間のうち、働く時間は8時間にして残りの16時間は生存と自分の生活、趣味などにあてましょうという根本的な発想があります。それを崩してもいいと安倍政権は言っているわけです。それは際限なく人を使って、そこから利益を上げたいという剥き出しの欲望です。そしてそこには、働く人の人間性が結果として失われたって構わないという発想があります。

だから、その対極にある労働法と、労働法が掲げている人間尊重の思想を完全に敵視しているのだと思うのですね。今国会に出されている労働者派遣法の改悪にしても、有期労働契約法の無期転換ルールの例外の問題にしても、限定正社員の問題にしても、全体として労働法の根本を掘り崩していこうという策動の一貫です。ですので、安倍政権というのはかつてない反人間的な政権だと私は思っています。

公務員バッシングとパワハラ

――公務の職場は、公務員バッシングで周りから叩かれ続け、現場は人減らしで成果主義が強まる。官製ワーキングプアと呼ばれる非正規の職員が増えていく。そうした公務職場の歪みが弱い立場の人たちにパワハラとして向かっていくというような悪循環もあるように思います。

公務員バッシングを見ていて常々思うのは、そもそも公務はお金で勘定できるものではないという根本があるのに、そこが歪められてしまっているのではないかということです。

私が少し前に関わっていた公務の職場に保育園があります。一人ひとり成長の度合いなどが違う保育園の子どもたちですから、保育士さんらによるケアも一人ひとり違いますよね。その場その場ですごく柔軟で専門的な判断が必要になってくる。その時に、じゃあこの子には手がいっぱいかかっているからその分のお金を取りましょうという発想で対処したら、おそらくその子どもたちの人間性を育むことにはならないだろうと思うのです。

保育というのは、単に働く親が働く時間を保証してもらうだけじゃなく、預かっている間にその子どもを育ててもらうところなので、金銭勘定で計ったら絶対に間違ってしまう。つまり公務労働というのは、ある意味採算を度外視しないとできないことがたくさんあると思うのですね。労働基準監督官の方々でも、労基署での相談にかかる手間は一つひとつの事件で違うじゃないですか。それをいちいち「この事件はこれだけ時間がかかったからこれだけ料金とりましょう」というような話にしたら、とてもじゃないけど怖くて相談もできなくなってしまう。だから、公務の職場こそお金を考えちゃいけない。そして、公務は社会全体の土俵を動かすための基礎フォーマットをつくるわけですから、そういった部分にきちんと投資をしていくという意味で、必要なものについてはやはり国費できちんと負担するという発想で本来いくべきだと思います。それを公務もお金で勘定しましょうというやり方をするのが根本的に間違っていると思うのですね。その根本的な間違いをどんどん進めてしまっているから、当然のようにあちこちで歪みが生じているのだと思います。

私は、多くの労働事件に関わっていて、なぜ労働基準監督官の人数がこんなに少ないのだといつも思います。公務に携わっている労働者の皆さんは、今の公務員バッシングの中ですごく遠慮がちに過ごされている方が多いのですが、私は全然そういうことは必要ないと思っているのですね。公務に従事している労働者こそ、自分たちの仕事が社会の基盤を支えているということに胸を張っていい。そして労働基準監督官のようにもっと人数を増やさなければいけないところは胸を張って増やすべきだと強く主張して欲しいと思っています。

パワハラは職場環境の問題か個人の責任か?

――公務員バッシングの一方で、自己責任論が安倍政権になって強まっていると思います。パワハラの捉え方も、職場環境の問題ではなく個人の責任にしていく。自己責任論が強まっていることも、パワハラが増えている背景のひとつにはあるでしょうか?

そうですね。そういう面はあると思いますね。ブラックバイトなどで苦しめられている当事者もそうですが、自分が受けたことは不当だと言って相談に来る学生は全体の中でごく少数だと思うのです。多くの学生が「言われたことをできなかった自分が悪い」というふうに思い、納得してしまっている。あるいは無理矢理に納得しようとしている。そういうところがあるのではないかなと思います。

それは今の就職活動の影響も大きいのかもしれません。学校教育の中では「努力した人間には結果が付いてくる」という公平なルールのようなものがありますが、就職活動になると途端になくなって、たとえ努力していても「就職が上手くいかないのは努力していないからだ」と今の大学生は叩き込まれるわけです。そういうところで自己責任論というものが異様に蔓延している。逆にそう結論づける方が、たたかわずに済むという意味では自分さえ我慢すればいいので本人にとっても楽というような側面もある。そういうところで自己責任論が蔓延しつつあるし、それを塗り固めていこうというのが、先ほど話した企業によるPIPのようなやり方ではないかと思っています。

ですから、労働者は、何が自分の責任で、何が自分の責任ではないのかということを客観的に見るべきだと思うのです。自分ができないのはなぜなのかを冷静かつ具体的に考えてみれば、もともと無理だったという結論に到達することは、本来そう難しいことではないはずだと思うのですが、そこまで思考できない。それで自己責任ということで納得してそれ以上考えることをやめてしまっている。そこを乗り越えていかなければいけないですね。

職場からハラスメントをなくしていくために

――パワハラを世代間の問題だと捉える向きもあります。特に年配の人が「自分たちが職場で叱咤激励されてやってきたことを、若い世代にも同じようにやっているだけなのに、なぜパワハラなのか」と言うケースがあるようですが、そうした世代間の問題はないでしょうか?

おそらく、現在はパワハラとして許されないような言動が昔はなかったのかといえばそんなことはないと思います。確かに「何かといえばパワハラだと騒がれてかなわない」と言っているような方々は、かつて30年ほど前に自分たちも同じようなことを上司から言われていたかもしれないし、場合によってはもっと酷かったかもしれません。現象としては同じようなことなのに、なぜ昔は許されて、なぜ今はダメなのか?ということですよね。

そこは難しいところなのでいろいろな人の意見を聞いて考えていかなければいけないと思いますが、ひとつには、そうした被害を受けた人がそのままにされてしまうというのが今の社会の一側面としてあると思います。全体的に人と人との関係が希薄になっていて、何か問題が起こったときに職場の中で「じゃあ憂さ晴らしに飲みに行こうぜ」と声を掛けたり掛けられたりすることが少なくなっていたりする。

人間は誰でも人間関係の摩擦の中で叩かれたりすることは当然あるわけです。一方でその人の気持ちを受け止めたり、アドバイスしたり励ましたりという人間的な接触関係があれば、それほど事態は深刻にならない場合もあるのではないかと思うのです。しかし、今の労働者はみんなバラバラにされているので、パワハラを受けたということを誰にも相談できないし、誰もそのことに共感してくれない。その状況の中で被害が被害としてだけ溜まっていく。それが今のパワハラの深刻さを生んでいるひとつの原因かもしれないと思います。そう考えると労働者をバラバラにしてしまう非正規雇用というのは本当に深刻な罪だと思います。

時代の変化に応じた仕組みを

――パワハラを職場からなくしていこうという動きと、寛容さを職場に取り戻すことは両立するものでしょうか。それとも歴史的な流れとしてすでに寛容さが失われた社会や職場では、パワハラに関する法的なラインをきちんと引いて、ここを超えた場合は裁かれなければいけないというふうになっていくべきなのでしょうか?

確かに寛容さが失われたということは取り戻せる話ではなく、私が話した仮説が正しいとすれば、すでに一人ひとりが分断されているのを人間的な連帯としてどう修復していくか? ということだと思うのですね。たとえば、かつては学校で「これは体罰ではないよね」と言われたことが現在は体罰だとされている場合、それが再び「体罰ではない」と認識が戻ることはないと私は思うわけです。

それは、人間は尊重されなければいけないという、人権思想が歴史的に発展したことの結果でもあります。だから人権意識が発展したことの結果は、それはそれとして尊重しなければならない。その上で、今起きている深刻なパワハラをどう吸収していくのかということについて、そもそもパワハラが起きないような仕掛けをどうするのか? パワハラが起こった場合どのように社会的にその人を融和していくのか? という仕組みを新しくつくっていくことが必要なのだと思います。

労働組合が強ければハラスメントはできないはず

――学校のいじめ問題や体罰問題を、現代にふさわしい形でどのように解決していくのかということと、パワハラの問題が僕(西口)には重なって見えます。僕自身は以前テレビ制作の仕事をしていたのですが、そこでは肉体的な暴力が日常的にあって、僕も実際に受けたことがあります。先輩達も僕達以上にひどいものを皆受けていた。今の方がずっと生温くなっているよと言われていました。それで国公労連に来てから労働相談を受けていると、肉体的な暴力としてのパワハラはまだまだたくさんあって、そういうことをやる人はだいたい特定の管理職です。それで辞めさせられるのは立場の弱い者なので、加害者である管理職の人はなかなか辞めさせることができない。それなりの企業ではそうした管理職を異動させて被害者と接触しないようにさせますが、転勤した先でもまたパワハラ問題を起こし、さらに転勤させても同じだったりと、個人の性格的な部分で繰り返していることもあると思います。その時に、どうやって対処すればいいのかと考えると、たとえば法的に、立件されないとしても訴訟を起こせたりとか、公的な枠組みが入ってこないと解決しようがないのかなと思います。学校の体罰問題にしても、「今のいじめや体罰の問題は、実際に警察などが介入してこない限り、学校の自助努力だけでは無理だ」と言う専門家が結構います。一方で日本の雇用の特殊性のようなもの、メンバーシップ性とも言われますが、辞めさせにくいという部分にも関わるのかなとも思います。友達と話していても、結構よくパワハラの話になるんですね。自分が受けたとか同僚が受けているとか。そうすると、やっている人はいつも同じなのに、その人は辞めさせられないというジレンマがあります。その辺りはどのようにお考えになりますか?

そこは理想と現実の難しい狭間の部分ですね。そういう人は「結局その職場でパワハラが許されているから増長してやっている」というところがあるので、パワハラを許さない雰囲気ができれば、その人が職場全体を支配していない限り、どんな悪人であっても最終的にはできないようになります。

職場で民主主義を機能させる

そういう意味でいうと、労働組合が強ければ本来はパワハラはできないのです。だから、その職場の状況を変えようという力が正常に機能する、つまり民主的な内部の機能が正常に機能する職場であれば変えられるということです。学校だって、私は自分自身が保護者として保育園に関わっていた時、保育園・子ども達・保護者という3面関係で保育園運営に関わったという自負があります。今は小学校の保護者としてもそういう関係をつくりたいと思って自分なりに頑張っているところですが、本来であれば、子ども達が発言しにくいことは保護者や先生達の民主的な力で自主的に改善していかなければいけないし、学校にはそれができるくらいの経済的余裕が人員的な配置も含めて与えられなければいけないんですよね。ただ現実的にはなかなか難しいところです。そこで外部の力を借りてくるというのは邪道な感じがするので、私はできるだけ避けるべきだと思っていますが、現実的に差し迫った危機を回避するためにはやむを得ない場合もあるかもしれません。

たとえば、こういう訴訟もあるのです。行われているパワハラそのものは恐らく訴訟をしても勝てない、けれどこれ以上のパワハラを防ぐために訴えておくというケースです。裁判で勝つ自信はないけれど、訴訟になれば株主もみんな知ることになるし、会社も加害者に対して表立った出世はさせづらくなる。そういう意味で、その加害者に対しても会社に対しても、今後の予防として訴えておくということで訴訟にするケースです。私はあまり良いとは思いませんが、やむを得ないなと思ってやる時はあります。そういうところで、できるだけ王道の方に持っていく努力をしながら、あとはケースバイケースで考えるということになるかと思いますね。

労働組合の上部に立つ人達こそ
今の到達点を謙虚に学ぶ必要がある

――労働組合の中においてもパワハラのようなことが問題になるケースがあります。

私たち弁護士も自戒を込めてそう思うのですが、活動時期が長くなればなるほど、意識はルーティン化します。そこをいつも深く自覚すべきだと思うのです。先ほどの体罰ではないですけど、昔は良かったことが、今はダメになることはいっぱいある。昔はこういうやり方で通用したということが、組合員の構成が変わることによって通用しなくなることもいっぱいあるわけですよね。そういう意味でいうと、労働組合の専従とか執行委員会の上部に立つ人達こそ、高い問題意識が必要です。それには常に学習していく意欲が必要ですし、いろいろな学習の機会を持って今の到達点をきちんと学ぶことが不可欠です。日常不断に学ぶという謙虚な姿勢をお願いしたいと思いますね。

私たちも職業柄、裁判の仕方が分かって慣れてくると、この事件はこうやればこうなるというようなことがだんだん分かってきてしまいます。しかし法律は常に変わっているし、判例も常に変わっている。とりわけパワハラのような発展的な問題はまさに毎年新しい事件が新しい判決を生むわけです。その最先端のところを学んでいかないと、結局立ち後れていくことになり、それがトラブルの元になるということだと思うのです。

特に労働組合運動は、いま変えなければいけない部分がたくさんあるじゃないですか。何といっても、日本型の労働組合は職場を基礎にした労働組合を建設して、それが発展する形でのナショナルセンターだったりするわけです。そこが非正規雇用の要求を吸い上げられないということは20年くらいずっと問題になっていますね。それに関して労働組合運動が全般的に答え切れていないという現状がある中で、本当は労働組合がもっともっと変わっていかなきゃいけない課題を抱えていると思います。だからこそ、ルーティンでやっていてはいけないということを常に意識して欲しいと思います。

それから、パワハラ的な言動をする組合役員がいたとすると、その役員の人に、パワハラ問題の学習会の講師をやってもらえばいいと思います。そもそもパワハラって何ですか? から始まって、こういうことは許されて、こういうことは許されないということを、その人自身に語らせればいいと思うのです。講師をするとなると、きちんと今のパワハラ問題の到達点を学ばなければいけませんから、おそらく本人自身も変わっていくと思います。

第2期のステージを迎えた首都圏青年ユニオン

――笹山先生は首都圏青年ユニオンを創設当時から支えてこられていますね。

首都圏青年ユニオンも、今は第2段階に来ていると思います。非正規雇用を組織化する労働組合運動として、国公の中には国公一般がありますし、各地域にもユニオンがあり、今やナショナルセンターを超えていろいろな運動を始めています。青年自身が青年の要求でつくる労働組合をとにかく具体像として掲げるというのが第1期の首都圏青年ユニオンの役割だったと私は思っているのですが、その役割はもう終わったと思うのですね。これからは、第2期のステージに入っていて、首都圏青年ユニオンがこういう発展ができるということを示すことが皆さんのひとつのモデルになるのではないかと思っているところです。

――首都圏青年ユニオンに関わるきっかけは何だったのでしょうか?

弁護士として非正規雇用の問題に取り組みたいと思っていましたので、そこに首都圏青年ユニオンの運動はマッチしたのが大きかったですね。私が大学を卒業する時はちょうどバブルが弾けた時で、同級生がみんな就職できなかった時期なんです。とりわけ女性の同級生で非正規雇用になっていく人がたくさんいました。そのとき、私はこれは一過性のものではないなと思ったのです。そうすると、非正規雇用のままで一生過ごさなければいけない人が出てくるのではないかと思った時に、非正規労働者であったとしても、ある程度正規労働者と遜色のない労働条件を確保できることが必要ではないかと思ったのです。でもそういう要求を実現していこうという労働組合がないのは問題ではないかというのが、私が弁護士になった頃の問題意識でした。ですので、この問題意識に応えられる労働組合があるのなら、その労働組合と一緒に運動していきたいと思っていた時に現れたのが、首都圏青年ユニオンだったのです。

ルーティンでないクリエイティブな労働運動を

――これだけ非正規労働者が増えているのに、まだまだ正規労働者中心の労働組合の取り組みになってしまっています。

ルーティンではないクリエイティブな労働組合運動が求められていると思います。労働組合は何のために存在しているのか? ということが問われていると思うのです。ある程度身を切るような大胆な方策なども考えないと、適当にこの辺をいじってみようという程度ではどうにもならない状況になっているのではないかと思います。たとえば、国の行政機関にも地方自治体にも非常勤職員がたくさんいて、毎年3月に首を切られそうになるわけです。その時に、非常勤職員の首を切るのは許さないとストライキを打つような労働組合でなければ、変わろうと思っても変われないと思うのです。そうやって何か目に見える具体的な行動を示さなければ、とりわけ非正規労働者にとっては労働組合の存在意義を感じないと思います。

それから、きょうのテーマであるパワハラの問題はひとつ分かりやすい課題になると思います。国家公務の職場においても非正規労働者に対するパワハラが多いわけですから、そうした状況に対して、労働組合の取り組みで「あの課長のパワハラをやめさせた」という成果をあげていくことは重要ですね。

長時間労働とパワハラは連動している

――長時間労働はパワハラとかなり連動していると思います。労働相談を受けていると、パワハラは労働時間規制ができていない職場で起きがちだということを感じます。

そうですね。長時間労働とパワハラは連動しています。パワハラが行われる職場は、例外なく労働法に対する遵守意識は希薄ですから、その意味でいうと、労働時間を守らなきゃいけないという意識、労働時間に応じて賃金を払うという意識、あるいはもっと赤裸々にいえば、その労働者の時間を買って仕事をしていただいているんだという経営者の意識がやはり希薄なのですね。労働者を人と思わず、労働者の時間は経営者が自由にできるものだと思い込んでいるから、パワハラが起きる。

これは伝統的で日本的な部分があって、まるで高校の体育会系部活動みたいなところがあると思います。そういう意味でいうと、その人の時間を拘束するということが、ある意味ビジネス的に「その拘束時間はいくらになる」みたいな発想がない。それが大きなひとつの原因だと感じます。

そして、学校のいじめというのも関連していると思います。今の職場で、いじめている人、いじめられている人というのは、70年代、80年代の学校のいじめを見てきた世代です。つまり、いじめがなんとなく容認されてしまうということが頭のどこかにある。いじめというものは結局は放置されるんだという意識がある。誰かを人格的に追いつめるということも、結局は許されるんだという甘えのようなものがどこかにあって、経営者も労働者もそれを許してしまっているところがあるのではないかと思います。そういう意味でいうと、本当に子どもの社会というのは大人社会と裏表だと思いますよね。だから、子どものいじめが深刻だという事態は、決して軽視してはいけないと思います。

――ブラック企業の体質は、高校などの体育会系のいじめの構造に似通っている面があるとも言われていますね。

そう思います。そういう体育会系のいじめを見てきて、聞きかじっているからこそ、そういうやり方を知っているわけですからね。構造的にも本来フラットであるはずの人間関係で、弱い部分にだけ攻撃が集中するというのも、そうした学校のいじめとすごく似ていると思います。学校のいじめを放置するということが、今の職場でのいじめの放置につながっている部分はあると思いますね。

――とりわけネットの世界で流布されている言説ですが、世界と違って日本は解雇規制が強すぎるから、パワハラとかいじめをして職場から追い出さざるを得ない。パワハラ・いじめの温床は解雇規制が強すぎることだなどと主張する人がいます。

まったく間違っている主張です。そもそも日本の解雇規制が厳しいなどという事実はありません。確かに解雇に関する法令として労働契約法の16条には、「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする」とありますが、この労働契約法16条があることによって解雇をしない企業がどれだけありますか? ということです。現実には多くの労働者が解雇されているのに対して、裁判を起こせる労働者は極少数です。解雇規制があるかないかに関係なく、企業は必要なら首を切るのです。解雇規制が企業のハードルになっているというのはごく一部のことを言っているに過ぎず、まったく実態を捉えたことにはなりません。こういう主張は日本社会の事実を知らなさすぎるだけです。解雇規制は職場のパワハラやいじめとはまったく連動していません。

――本日は長時間、ありがとうございました。

▼参照
高度P制(残業代ゼロ)法案は参院選の重要争点です(渡辺輝人弁護士)

【Q&A式】1から分かる「定額¥働かせ放題(残業代ゼロ)」法案の問題点(佐々木亮弁護士・ブラック企業被害対策弁護団代表)

井上 伸雑誌『KOKKO』編集者

投稿者プロフィール

月刊誌『経済』編集部、東京大学教職員組合執行委員などをへて、現在、日本国家公務員労働組合連合会(略称=国公労連)中央執行委員(教宣部長)、労働運動総合研究所(労働総研)理事、福祉国家構想研究会事務局員、雑誌『KOKKO』(堀之内出版)編集者、国公一般ブログ「すくらむ」管理者、日本機関紙協会常任理事(SNS担当)、「わたしの仕事8時間プロジェクト」(雇用共同アクションのSNSプロジェクト)メンバー。著書に、山家悠紀夫さんとの共著『消費税増税の大ウソ――「財政破綻」論の真実』(大月書店)があります。

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