- Home
- etc., 公務・公共, 貧困と格差
- 映画「死刑弁護人」-警察・検察・マスコミ作の絶対悪vs犯罪は自己責任でなく社会のあり方こそを問う=犯罪の原因は社会の側にある、犯罪者個人を死刑で社会から排除しても事件は解決しない
映画「死刑弁護人」-警察・検察・マスコミ作の絶対悪vs犯罪は自己責任でなく社会のあり方こそを問う=犯罪の原因は社会の側にある、犯罪者個人を死刑で社会から排除しても事件は解決しない

(※きょう10月10日は、第13回「世界死刑廃止デー」です。2012年8月に書いたものですが、紹介しておきます。※上の画像は映画「死刑弁護人」の予告編から)
映画「死刑弁護人」を観ました。死刑事件を請け負う安田好弘弁護士の生き様に迫ったドキュメント映画です。
安田弁護士と言えば、真っ先に思い浮かべるのは1999年に山口県で起きた「光市母子殺害事件」。被告の「元少年」を弁護した安田弁護士は、マスコミを中心に「極悪人の代理人」「人殺しを弁護する人でなし」「悪魔の弁護人」「鬼畜」などの言葉で激しいバッシングを受けました。当時、ワイドショーに出演していた橋下徹現大阪市長からは、テレビ番組の中で懲戒請求まで呼びかけられます。映画の中でも安田弁護士宛に届いたカッターナイフ入りの封書が映し出されていました。
安田弁護士をバッシングする側の人、死刑は必要だと思う人は、この映画を観ようとはしないでしょう。しかし、そうした人にこそ観てもらいたい映画です。
私たちが持っている「常識」なるものが、いかに警察・検察・マスコミによって操作されて捏造された「常識」であるのか、この映画は思い知らせてくれます。スクリーンに映し出される安田弁護士の懸命な弁護活動によって浮かび上がる事件の真相によって、警察・検察・マスコミからの情報をまったく疑うことなく鵜呑みにしてきた自分の愚かさに愕然とさせられるのです。警察・検察によるでっち上げは、何も冤罪事件だけに限るものではないことに思い至るはずです。警察・検察は、被疑者を「絶対的な悪」とするストーリーを勝手に描いて凶悪なモンスターにでっち上げることも行っているのです。さらにそれを増幅するマスコミと、マスコミに扇動させられる庶民が「絶対的な正義」なるものの立場から、被疑者を「絶対的な悪」として憎悪しバッシングし、そうして作られた「国民感情」なるものにも乗るような形で司法が死刑を宣告するに至っているのです。
その一例を「光市母子殺害事件」で見ると、安田弁護士は被害者の遺体にある痕跡などが検察の主張や裁判で認定されてきた事実と異なることに気づきます。「両手で全体重をかけて首を絞めた」とされる痕跡が、当時23歳の被害者女性の遺体にはなく、当時生後11カ月の赤ちゃんの遺体にも、「頭上から後頭部を思い切りたたきつけた」とされているのに、頭蓋骨にも脳内にも何の損傷もなかったのです。こうした客観的な証拠と元少年の自白内容が一致しないことに対して、安田弁護士は、「事実、まず事実。事実を明らかにして、初めて本当の反省と贖罪が生まれる」と言い、どんな死刑事件に対しても、最後まで真実を明らかにしようとするのです。
映画「死刑弁護人」公式サイトに、漫画家の郷田マモラさんのコメントが掲載されています。 私が映画を観た感想と同じだったので紹介します。
世の中、盲目的に多数派に流れる方が楽に生きてゆける。
そうではない、安田弁護士の「人」そのものをみつめる眼差しは、
やさしさに満ちている。
今、ひとりひとりが自分の「目」はどうなのだろうか?……と、
問わなければいけない。
郷田マモラ 漫画家
それから、覚えている限りですが、映画の中での安田弁護士の印象的な言葉を以下紹介します。(※ナレーション部分も安田弁護士の言葉として覚えてしまっている可能性大であること御了承を)
(「マスコミは好きですか?」と問われ
「嫌いですね。マスコミの人たちは、人を痛めつけていることが多い。とくに、弱い人を痛めつけている。マスコミは強者だ、ということです」
(「どんな人でも必ず更正できるか?」と問われ)
「更正しないということが、想像できないですね。ヒトラーでもどんな独裁者でも更正できると思うのです。僕らみたいな市民、庶民はもっと簡単に更正できると思う。簡単に塀の中から外へと変わりうる」
「事実をすべて明らかにしてこそ、被告に本当の反省と償いが生まれる。どうしたら同じことを繰り返さずに済むのか、それには、まず真実を究明しなければならない」
「貧困と富裕、安定と不安定、山手と下町。凄惨な犯罪は境界で起きることが多い。生まれ育った環境が生む歪みを無視し、加害者を断罪することに終始することが、事件の『解決』と言えるのでしょうか? 誰が何を裁くのか? 裁判は、犯罪を抑止するために、材料を洗い出す場でもあるはずです。事件を個人の罪に帰して片付けてしまうのではなく、犯人もまた社会のひずみが生み出した被害者であるのです」
最後に、「死刑弁護人」の齊藤潤一監督のインタビューの一部を以下紹介します。
安田さんの根底には弱者に対する思いがあるんですね。加害者となった被告人は家庭的にも恵まれてなかった人も多く、ホームレスだったり、虐待を受けたり、母の自殺を目の当たりにした子供だったり、差別を受けたりという過去の背景があります。事件を起こしたことはもちろん悪いことだけど、その人をバッシングして、死刑判決を出してそれで終わりというのではなく、弱者に対して誰かが救いの手を差し伸べることができたら犯罪が起きなかったかもしれない。事件の真相をしっかりと追求して、二度と同じような犯罪を犯さないような社会にするにはどうしたらいいかということを、安田さんはずっと思いながら弁護活動をしているんですね。弱者を作らなければ犯罪は起きないのだから、という目線の優しさはすごく感じましたね。(※齊藤潤一監督のインタビューはここまで)
映画を観て根本的なところで強く思ったのは、安田弁護士は「自己責任論」とたたかっているのだということです。「貧困は自己責任ではない」と私たち労働組合はたたかっているわけですが、犯罪事実の前での犯罪者本人の反省と贖罪は当然の前提にしても根本的には「犯罪も自己責任ではない」のです。犯罪が自己責任だけであるなら、その責任は犯罪者にだけあることになります。犯罪の原因となる問題は社会の側にはなく個人の側だけにあるとされ、その問題を抱える犯罪者個人だけを社会から排除すれば事件は解決するというわけです。しかし、それでは本当の意味で事件は解決していないのではないでしょうか。