公務員はアメリカの戦争の奉仕者ではない、政権与党に民意が反映されない小選挙区制のもとでの「政治主導」と「戦争法」の二重の違憲状態

先の戦前戦中、公務員は「天皇とその政府への奉仕者」「大日本帝国の侵略戦争への奉仕者」でした。現在の憲法のもと、公務員は「一人ひとりの人民の集合体としてのコミュニティ全体の奉仕者」となりました。ところが、きょう安倍政権によって強行採決された違憲の「戦争法」は、公務員(自衛隊員含む)を「アメリカの戦争の奉仕者」へと憲法に反して強制していくものでもあります。そもそも小選挙区制も民主主義から逸脱しているのに、加えて違憲の「戦争法」ですから、二重に憲法違反状態のもとに公務員は置かれるという異常事態でもあるわけですが、頭を整理するために、2014年10月にインタビューしたものですが紹介します。

公務員の役割と権利を考える
晴山一穂 専修大学教授インタビュー

重要な憲法の視点から考える公務員の役割
国民主権など憲法3原則ふまえ「全体の奉仕者」へ

――きょうは晴山先生に「公務労働者の役割と権利」についてお話をうかがいます。最初に公務員の役割についてお聞かせください。(聞き手=国公労連調査政策部・井上伸)

公務員の役割を考える場合、常に2つの基本的な視点を持つことが重要です。1つは、日本国憲法の視点で、もう1つは、公務員制度の歴史から見た現代国家における公務員の役割という視点です。

まず、憲法の視点から公務員の役割を考えることの重要性についてです。日本国憲法が直接公務員のことを規定した条文としては憲法15条の1項と2項があります。ただし、15条の意味を考えるにあたっては、憲法の基本原理である国民主権と基本的人権の保障、そして平和主義という憲法3原則を踏まえた上で、行政の担い手である公務員の位置づけについて、15条で規定していると捉えることが大事になります。国民主権など憲法3原則を除いた形で15条だけ単独で取り出して公務員の役割を考えるということは適切ではないわけです。

この点を踏まえた上で憲法15条をみていきましょう。15条1項では「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とし、2項では「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と規定しています。この1項と2項はいずれも憲法の基本原理である国民主権の表れなのですが、この規定の意味をより深く知るためには、戦前の官吏制度を振り返ってみる必要があります。

「一部の奉仕者」だった戦前の公務員

戦前の官吏(現在の国家公務員の中核部分に当たる人)は、大日本帝国憲法(明治憲法)のもとで、「天皇の官吏」として天皇に身分的に隷従し、天皇とその政府にだけ奉仕する存在でした。国民から見れば、絶対的な主権者であり統治権を総攬する天皇に奉仕し、国民を支配する特権階級だったわけです。そして、官吏の任命は、議会も関与できない天皇だけの権限であるといういわゆる「任官大権」が憲法で定められていました。こうした強大な官吏集団と軍部に支えられた絶対主義的天皇制、天皇主権のもとで、日本は軍国主義国家としてアジア諸国への侵略戦争へと突き進み、太平洋戦争を経て敗戦を迎えることになります。

こうした歴史への反省に立って、戦後の日本は、天皇主権に立つ大日本帝国憲法から国民主権に立つ日本国憲法へと転換を遂げることになります。戦前の「天皇の官吏」のあり方は全面的に否定され、公務員は国民全体の奉仕者になるとともに、「任官大権」も否定され、公務員を選ぶのは国民固有の権利であることを15条1項で明記させることになります。

もちろん、実際にすべての公務員が選挙で国民に選ばれるわけではありません。現在選挙で選ばれるのは国会議員と地方自治体の長、地方議会の議員ですが、国の場合には、国民によって選ばれた国会の多数派が内閣を組織し、内閣を構成する各省大臣が公務員を任命します。地方の場合にも、住民が選んだ長が公務員を任命する、ということを通して、つきつめれば国民に公務員の選定権があるということになるのです。つまり、公務員の地位は、国民から離れた一部の権力者によって付与されるのではなく、究極的には国民の意思によってのみ成立する、という国民主権という鏡を通して公務員の地位を照らし出した規定が15条1項になります。

15条2項の公務員が「全体の奉仕者」であるということも、同じ考えに立つものです。とりわけ注意する必要があるのは、公務員は「一部の奉仕者ではない」とわざわざ付け加えられているところです。これは、戦前の官吏のように、天皇を頂点とする一部の支配者に奉仕するのではなく、まさに国民全体に奉仕すべき存在であり、国民主権に立った公務員であるということを明確に性格規定しているのです。

公務員制度の歴史から見た現代国家における公務員の役割

――2つめの視点としてあげられた、公務員制度の歴史から見た公務員の役割とはどういうことなのでしょうか?

公務員制度の歴史から見た現代国家における公務員の役割を考える際に、参考になるのが、アメリカの公務員制度の歴史です。また、戦後日本の国家公務員制度は、アメリカの公務員制度にならってつくられたもので、憲法の制定と並行しながら、GHQが自国の専門家を呼んで、憲法の理念を踏まえながら国家公務員制度のあり方が構想され、国公法が制定されたわけです。その点からしても、アメリカの公務員制度の歴史を踏まえておくことが日本の公務員制度を考えるときにも大切なのです。

19世紀当初のアメリカの公務員制度は、猟官制という慣行が支配していました。猟官制というのは、一言でいえば、大統領選挙で政権が代わるごとに大量の連邦公務員を更迭する仕組みです。アメリカでは早くから2大政党制が発達するわけですが、そのもとで、ある政党が大統領選挙で勝利すると、その政党の支持者を公務員に任命します。そして、次の選挙で別の政党の大統領が当選すると、今度はその政党の支持者へと公務員を入れ替えます。これが猟官制の基本的な仕組みです。

ある意味ではこの猟官制はアメリカ的な民主主義の表れともいえるわけです。民意に従って政権を選び、その政権が民意を踏まえた政策を徹底して遂行するために、それを支持する公務員で固める。そして次の機会に民意が変われば、それに従う。非常に単純に考えれば民主主義の究極の形態ともいえるのですが、官職を得るために政治家と金銭でつながるなど行き過ぎた猟官運動が広がる中で、次第に当初の民主的理念を失い、腐敗の度を強めて、最後は大統領が暗殺されるという事件まで起こってしまいます。

アメリカの猟官制の腐敗と高度で専門的な
職務への変化による成績主義の確立

他方で、資本主義の発展に伴いさまざまな社会的矛盾が激化する中で、国家機能が著しく拡大・多様化し、公務員の職務内容も当初の比較的単純な職務から高度で専門的な職務へと大きく変化します。猟官制で選挙のたびに入れ替わる数年間だけの公務員というのでは、その高度で専門的な職務を担うことはもはや不可能になっていきます。

この猟官制の腐敗と、高度で専門的な職務への変化によって、アメリカでは、100年くらいの長い歴史を経て、猟官制から成績主義へと移行が進められることになります。

成績主義というのは、党派的立場によってではなく、公務の担い手としての客観的な能力や資格を備えているかどうかを基準に公務員を任用するというものです。成績主義による公務員の役割は、時の政権の政治的支持者として政権に奉仕することではなく、自らの専門的能力を活かして、政権交代の有無を問わず永続的な立場に立って、公正中立の観点から国民全体に奉仕することにある、ということになります。

こうしたアメリカでの猟官主義から成績主義への転換を踏まえた形で、現在の日本の公務員制度ができ、成績主義を踏まえた憲法の「国民全体の奉仕者」という日本における公務員の役割が基本的に確立されたわけです。

アメリカの成績主義やドイツのワイマール憲法から
日本国憲法の「全体の奉仕者」が生まれた

――アメリカでの猟官主義から成績主義への移行と、日本国憲法が制定される時に「全体の奉仕者」と明記されたのは、どういった時間軸での関係になるのでしょうか?

アメリカの猟官制が腐敗していったのが19世紀半ばから後半にかけてで、資本主義の高度化が19世紀末から20世紀でした。そこから大きく転換して、今の現代的な公務員制度の元になった法律が1883年にアメリカで制定されます。

しかし、そこで一気に成績主義に変わったわけではなく、完全に成績主義に変わるまでにはごく最近までかかっています。アメリカでは20世紀初頭からそういう流れになって、戦後日本のモデルにした時には大きく成績主義に転換を遂げつつあったということです。

それから、「全体の奉仕者」という規定が憲法に盛り込まれた理由については、最近、憲法の制定過程を調べ始めています。具体的にこれが理由だという明確なものはまだわかっていないのですが、同じ規定がワイマール憲法にあったということがわかっています。ワイマール憲法は第1次世界大戦後、ドイツの社会民主党政権のもとでできた、その時代の最も先進的で民主主義的な憲法と言われています。そのワイマール憲法には、「ドイツの官吏は国民全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない」という規定があるのです。日本国憲法の制定はGHQの十数名のメンバーが中心になって起草しているのですが、法律の専門家が多くて、世界各国の憲法と日本の各種憲法草案も取り入れながら、いわゆるマッカーサー草案をつくっていったと言われています。その過程の中で、「全体の奉仕者」の規定についてはワイマール憲法が参考にされたということが共通して言われていることなのです。

そうすると、日本国憲法15条1項・2項は、猟官主義から成績主義へというアメリカの歴史だけではなく、ドイツのワイマール憲法も含めて、普遍性を持った現代国家における公務員の位置づけを定めた規定ではないかと最近は考えるようになっています。

「一人ひとりの人民の集合体としての
コミュニティ全体の奉仕者」=公務員

憲法制定過程はもっと調べていきたいと思っていますが、もうひとつ気になっている点について言うと、日本国憲法15条2項の英文の規定は「Public officials are the servants of the whole community」で、全体社会と言いますか、国家でもなく、ただの全体でもなく、まさに人々の集合体であるコミュニティというのが起草したもともとの言葉なのです。それを「全体の奉仕者」という非常に抽象的な日本語を使ったものですから、「全体主義的」な意味で捉えられたり、「全体の奉仕者」だから公務員は国家に尽くせ、ストライキなんかとんでもない、といういわゆる権威的な「全体の奉仕者論」になってしまうという負の側面も出て来てしまいました。当初の最高裁などは、それによって公務員の労働基本権の制限を合理化しました。

英文規定はGHQとやりとりした日本の法制局の官僚が日本語に訳したわけですが、意図的に「whole community」を「全体」と訳したのではないかという指摘もあります。せめて国民をつけて「国民全体の奉仕者」と規定すべきだったのを、国民も落として「全体」としたのではないかというわけです。この点についてもどこまで信憑性があるか確認しなければいけない問題なのですが、いずれにしても15条における「全体の奉仕者」というのは、もともとは抽象的な「全体の奉仕者」ではなく、文字通り「一人ひとりの人民の集合体としてのコミュニティ全体の奉仕者」が公務員なのだという趣旨です。その意味でも、非常に普遍性をもった国民主権のもとでの公務員のあり方だと捉えるべきではないかと考えています。

公務員が「全体の奉仕者」であることを確保する仕組み

――公務員が「全体の奉仕者」であることの意味はわかりましたが、そのことを確保するためにはどのような仕組みが必要になるのでしょうか。

指摘してきたように、憲法の視点と公務員制度の歴史という2つの視点から、現在の公務員は、一党一派に奉仕するのではなくて、自らの専門的能力を踏まえて、公正中立の観点に立って国民全体に奉仕すべきものということになります。

しかし、それを現実的に保障する制度なりシステムが存在しないと、時の政権の意向で「政権に従うことこそ全体に奉仕することなんだ」などという政治的な支配を受けかねないことになります。ですので、それを防いで、公務員が全体の奉仕者として国民全体のために職務を遂行することを確保する仕組みが必要となります。そのための制度上の原則が、いわゆる「公正中立性」といわれるものです。この公正中立性という言葉を悪用して、公務員そのものが公正中立でなければならないとして公務員の政治活動の自由を制限し正当化するケースがありますが、これは間違った使い方です。本来の正しい意味での公正中立性とは、人事行政の公正中立性を指し、政治が公務員に対して様々な支配や関与をすることを防ぎ、公正中立な人事行政のもとで公務員が国民全体のための奉仕者として職務を遂行できるようにするという意味での公正中立性ということになります。

その最も重要なものが、公務員の身分保障です。簡単にいえば、法令の定める事由によらなければ免職や降任されないということで、その免職や降任の理由も法律で厳格に制限し、客観的にそれを解釈していくことによって恣意的な免職等によって公務員の身分が脅かされないということが一つです。

もう一つは、今でいえば人事院制度ということになるわけですが、もう少し一般化して言えば人事行政全体を担う政府から独立した公正中立な第三者機関の存在が必要になってくるということです。これは、国でいえば人事院、自治体でいえば人事委員会ということに今はなるわけですが、こういう話をすると、組合活動を一生懸命やっている人は「そんなこと言ったって今人事院は給与制度の総合的な見直しで酷いことをやっているじゃないか」「人事委員会はもっと酷いじゃないか」という意見がかなり出るのですね。それは確かにそうなので、そこは正していかなければいけない課題として踏まえておく必要があるのですが、公正中立の第三者機関の存在によって公務員の全体の奉仕者性を支えるという、本来の第三者機関の役割がすごく重要だということは常に意識しておいて欲しいのです。その点を踏まえずに「人事院はいらない」ということにしてしまうと、今の政府の動きから考えても非常に危ういことになりますので、そこは常に意識すべきだと強調しておきたいと思います。

人口比で日本の2倍近くの公務員がいるフランス

――諸外国の公務員の権利の状況はどうなっているのでしょうか?

とりわけフランスの公務員制度に関心があって、現地にも調査に行っているのですが、あまりに日本と違い過ぎるので、「フランスの公務員はこうだ」と言ってもなかなか日本で参考にしていくというふうにつながらない難しさを感じています。

一つは、公務員の数が圧倒的に違います。公共部門が非常に厚く、準公務員的なものも含めると、人口比で日本の2倍近くになります。フランスでも民営化の動きがもちろんありますが、日本に比べると公共サービスを社会全体が大事にしていて、公務員によって公共サービスを行うことが国民にとって重要だという観念が、公務員だけじゃなく国民の中にも根付いているわけです。日本と同じように「公務員は働かない」というような批判もありますが、最後はやはり公務員は非常に重要だと言います。もし、政府が公務員を大幅に減らすようなことがあったら絶対に革命が起きるだろうとまで普通の市民が言うわけです。革命という言葉まで使って言うお国柄ですので、フランスは日本とは対照的ですね。

それはなぜだろうと突き詰めていくと、やはり自分たちみんなでつくる国だという観点があるわけですね。フランス革命以来、国民が血を流しながら何度も政権を変えて、君主制を打倒したりしながら国をつくってきたという歴史がある中で、どういう政権にしても自分たちがつくった政権だという意識がある。だから公共部門はまさにそういうものとしてあるんだという観念を持っているわけです。そこがやはり日本との決定的な違いだと思いますね。

それから、フランスでは公務員がストライキでたたかうわけですが、私がいた時はゼネストもやっていました。国民はストライキで公共交通機関も止まるし生活に非常に不便を強いられて、いろいろ批判もするんですけど、それでも世論調査をすると常に公務員のストライキを支持する国民が6~7割にものぼる。自分たち民間労働者はストライキもできない状況にあるけれど、公務員は自分たちの分も頑張ってストライキでたたかってくれという声が出てくるお国柄です。

本当に違いが大き過ぎて、日本もフランスに見習えばと言うのですが、結局国家のあり方というのか、長い歴史の中で国民がつくってきたものがあるわけで、そこを抜きに簡単にフランスを見習えばいいというふうにはならない気がしています。

実質的に労使交渉で勤務条件を決定

――フランスの国家公務員は、ストライキ権はあるけれど協約締結権はないのですよね。

そうです。協約締結権はありません。日本だといわゆる勤務条件法定主義がかなり強くあって、法律だけじゃなく人事院規則や政令も含めてかなり詳細に規定されていますよね。

この点はフランスでも基本的に変わらないのですが、フランスでは勤務条件法定主義は労働基本権を制限する正当化理由にはならないのです。スト権は憲法上保障されていますから、ストライキをやって、政府交渉もやって、政府と合意したら政府がその法令を変えるわけです。ですから実質、労使交渉によって法令自体を変えていく、そして勤務条件を変えていく。労使で協約を結んで協約が法的効力を持つという仕組みにはなっていませんが、事実上それに等しいというか、ある意味ではそれを上回ることが実現されているわけです。その点では特殊なんですよね。協約締結権がないから遅れているというような日本的発想ではいかないところがあるのです。

公務員のあり方を考える4つの視点

――晴山先生は、公務員のあり方を考える4つの視点が大事だと指摘されていますね。

4つの視点というのは、①公務担当者としての公務員、②労働者としての公務員、③市民としての公務員、④人間としての公務員、という4つの視点から公務員のあり方を考えるというものです。

1つめの視点は、言うまでもなく「公務担当者としての公務員」です。これは今までに指摘してきた憲法上の「全体の奉仕者」としての公務員の役割という視点から公務員のあり方を常に考えることが大事だということです。

労働者としての公務員

2つめの視点の「労働者としての公務員」は、一部の上級公務員を除く一般の公務員が労働者であることは、ILO(国際労働機関)をはじめ国際的にも広く承認された事柄であり、公務員も、「勤労者」として憲法28条が定める団結権、団体交渉権、争議権の労働三権を享有していることは、最高裁も一貫して認めるところとなっています。また、適正な労働条件のもとで働く「勤労の権利」を保障した憲法27条1項も、当然のことながら、公務員にも適用されることになります。

それにもかかわらず、現在の国家公務員法(国公法)、地方公務員法(地公法)は、公務員に対して争議行為を全面的に禁止するとともに、団体交渉権についても、その中核をなす労働協約締結権を否認しています。このことが憲法28条に違反するとして争われた一連の事件において、最高裁の判例は戦後二転三転しますが、1973年の全農林警職法事件判決以降、最高裁は、すべての公務員について争議行為の一律全面禁止を合憲とする、かたくなな態度に固執してきました。

しかし、国際的にみても異常な現行法の規定に対しては、内外から批判の声が強まっていて、ILOも再三、日本政府への勧告を出しています。こうした声に押され、旧民主党政権も、公務員に労働協約締結権を付与する法案を一昨年末の国会に提出するに至りましたが、廃案となり、労働基本権保障に消極的な安倍政権のもとで、その実現の見通しはまったく立っていません。さらに重大な問題は、労働基本権の核心をなす争議権について現行法を見直す動きがまったく見られないことです。

こうした状況のもとで、公務員労働者としては、将来的に労働基本権の完全な保障を勝ち取ることを展望しつつ、当面は、当局との間で組合活動の権利を定着させるとともに、日常の組合活動を通して、公務員の権利の実現に向けた取り組みを強化していくことが重要になっています。

市民としての公務員

3つめの視点は、「市民としての公務員」です。これは公務担当者という立場を離れ、労働者という立場も離れてみると市民として普通に生活しているわけですので、そこでいう市民的権利は当然保障されるべきだということです。とりわけ憲法21条で保障されている「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」です。これが公務員であるという理由で制限されるのはまったく理不尽な話です。

ところが、現行国公法は、国家公務員の政治的行為をほぼ全面的に禁止し、その違反に対して、3年以下の懲役または100万円以下の罰金という重い刑罰を定めています。また、地公法では、刑罰規定はなく、禁止される政治活動に関する政治的目的、政治的行為の範囲、あるいは政治活動が行われる区域などが国公法よりは限定されていますが、一般の市民であれば当然に保障されている政治的行為が、懲戒処分という制裁を伴って禁止されています。しかも、これらの規定は、公務員が、勤務時間外に職務とまったく関係なしに純粋に一市民として行う政治的行為にも適用されるものであることから、公務員に対して「一切の表現の自由」を保障した憲法21条に違反するものであるとして、労働基本権の制限とともに、戦後の公務員制度をめぐる最大の憲法問題を形成してきました。

1974年の猿払事件判決で最高裁は、国公法の現行規定に一切の制限を加えることなしに全面的に合憲とする判決を下しました。ところが、2012年12月7日になって、旧社会保険庁の職員(非管理職)である堀越明男さんが、休日に自宅周辺の住宅に政党機関紙を配布した行為が国公法違反として起訴された事件において、最高裁は、堀越さんを無罪とする判決を下すに至りました。他方で、最高裁は、同じ日に判決が下された世田谷事件では、被告人が厚生労働省の課長補佐という地位にあったというだけの理由で有罪とする不当判決を下すという問題も残しています。しかし、少なくとも非管理職職員について政治活動の自由を認めた堀越事件判決は、従来の最高裁のかたくなな姿勢の変化を示す判決であることは間違いありません。また、この判決は、大阪市の橋下徹市長が、地方公務員にも国公法並みの制限を課すとして制定した政治活動制限条例の今後の運用に対しても、大きな制約を課すものとして重視する必要があります。

人間としての公務員

4つめの視点は、「人間としての公務員」です。とりわけ、「官製ワーキングプア」と呼ばれる公務職場で働く非正規職員の劣悪な労働条件は、すべての国民に対して「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する憲法25条の生存権、そしてその基礎にある「人間としての尊厳」が根底から脅かされる深刻な事態が生じているのではないか、という問題意識からこの視点が重要になっていると考えています。

加えて、この問題は非正規職員にとどまらず、公務職場の正規職員であっても、相次ぐ定員削減と業務量の増加、そして仕事内容自体が新自由主義的構造改革の中で国民の権利利益と激しく相反するものになってきている矛盾などで、ストレスや過労など非人間的な労働を強いられる、というおよそ「人間の尊厳」とはほど遠い状況が生まれてきているのが多くの公務職場の実態ではないかと思われます。こうした状況を公務職場の正規職員と非正規職員、そして民間労働者や国民と手を結んで「人間の尊厳」の回復と確立のための運動に取り組むことが重要になっていると感じています。

公務員が議員に立候補できる国も

――フランスの公務員は議員にもなれると聞きました。

フランスの公務員は身分が保障されたまま自由に議員に立候補できます。選挙中は公務員の賃金はもちろん出ませんが、身分は保障されたままで、選挙で落ちるとまた公務員として仕事ができるのです。選挙期間や議員をやっている期間が日本でいうと休職のような扱いになっています。ドイツも同じで、公務員にとっても国民にとっても政治が身近で、公務員がいろいろな政党を支持したり議員になったりというのも普通のことと見ているのです。そういう感覚こそがやはり近代国家、民主主義国家としての当然のあり方だと思うのです。日本のように、公務員がどこかの政党を支持すると横目で見たりというのは、逆におかしな話です。日本でも公務員であろうと一市民として自由にいろいろなことをやれるという雰囲気を、公務員の中でも、それを見守る市民としても許容していく、そうした社会をつくっていくことが重要だと思います。

政治主導をめざす国公法「改正」

――今回の国公法「改正」については、どう見ていますか?

この春の国公法「改正」で、幹部職員を初めて国公法で定義づけました。事務次官、局長、部長ということですが、そこだけ普通の職員と切り離して独自の類型として法的に位置づけた。その上で、その幹部職員の人事については内閣総理大臣と官房長官が一元的に行うという具体的な仕組みをつくったわけですね。そして、それを事務的に支えるために内閣に内閣人事局を設置しました。

これは数年前の自公政権で最初に法案が出て、成立しないまま民主党政権に引き継がれ、民主党政権でも基本的に同じ内容の法案が出されたわけですが、それも廃案になった後に、安倍政権のもとでようやく成立したということになります。つまり、安倍政権が成立したから国公法「改正」が通ったということではなく、自公政権、民主党政権含めて、この間の一つの共通する流れとしてあったということになります。

それを支える考え方がいわゆる「政治主導」ということになるわけです。政と官の関係について従来のあり方を大きく見直し、選挙で勝った政党が内閣を構成するのが本来の議員内閣制であるから、選挙で国民の信を得た政策を実行していくために、公務員、官僚を統制しなければならないというわけです。官僚はそれに従うことこそが本来の役割だということなる。その論理を支えるもう一つが、いわゆる「霞が関解体」論です。今の官僚制度は省庁縦割りで、それぞれが省益だけを追求しているので、ここを解体しない限りは国民の要求は実現しないんだという話になっているわけです。

少しさかのぼると、橋本内閣以降の行政改革の流れの中で、政治主導論というのが日本の政治と行政のあり方を大きく変えてきました。これとセットになっているのが政治改革ということであり、90年代始めに紆余曲折の末に政治改革法案が成立し、2大政党制に向けて小選挙区制を導入したわけです。政権を競い合う二大政党を形成して、その2大政党がマニフェストを掲げて政権を争い、選挙で勝った方がマニフェストを全面的に実行していく。そして、公務員はすべてこれに従え、という論理です。

これを主導したのは財界ですが、そのシンクタンクといっていい21世紀臨調の動きをずっと追っていくと、じつに見事に21世紀臨調の主張に沿っています。そして、この政治主導の論理を最も有効に活用したのが小泉政権で、経済財政諮問会議を大活躍させて新自由主義改革をどんどんやって進めたわけです。そういう流れのなかで今日まで来ているのだろうと思っています。

国家公務員制度改革もその流れのなかで、従来の公務員制度改革とは性格が変わってきました。2001年に出た公務員制度改革大綱が今の流れにつながる出発点ではないかと私は思っているのですが、そこで橋本行革で器は整ったけれど魂が入っていない。これに魂を入れるのが公務員制度改革だというのを打ち出したわけですね。それ以降、政治主導論の流れが今日まで続いてきて、今回の国公法「改正」に結びついたというふうに大きな流れとしては見るべきだろうと思っています。

今回の国公法「改正」は時代に逆行するもの

――政治主導というのは、アメリカの猟官制に戻るというように考えていいのでしょうか?

そう見えますね。これまで指摘してきたように、公務員制度の歴史的な流れにはまさに逆行するわけですね。アメリカで猟官制が比較的腐敗しないでやっていくことができた時代は、それほど公務が複雑化・高度化していなかったわけで、多少知識がある人であれば誰でもやれるという状況だったのです。それが選挙で勝った政党のためにというところと結びついていたので、いってみれば民主的な理念がそれなりにシステムとしての猟官制を支える時代状況があったからこそやっていくことが可能だったわけです。

ところが、今やそんなことはもう現実的にできない。いくら猟官制をやろうとしても不可能なくらい公務自体が多様化・複雑化・高度化してきた中で、政治とは違う公務員独自の役割が出てきたわけです。もちろん最後は国民主権ですから、最後のところでは政治に従わなければいけない、政権に従わなければいけない、これは全面的に否定できないのですが、しかし、ただ政治に公務員が服従していればいいという話ではなくて、公務員が場合によっては政治も正すという観点から公務の専門家として意見を述べ、できるだけ国民全体の奉仕者としての公務員の役割を政治に反映させていくことが必要になっているのが現代なのです。

本当はそれをきちんと保障する仕組みが必要で、日本の場合はなかなかそれがなくて大変なのですが、本来的にはそういう役割を公務員は持っているわけです。私が描く政官の正しいあり方は、公務員は専門家として中立公正の立場で、どんな政党が政権についていようとも、時の政権に可能な限り自らの意見を反映させていく役割があるということです。他方で政治家の役割は、公務員の中立公正さを最大限尊重して、幅広くいろいろな意見を吸い上げ、最後は政治の責任で決めて実施し、その責任は選挙で問う。これが現代の政官の本来あるべき姿だと、私は考えています。

この現代の到達点から今の政治主導論を見ると、マニフェストで競い合って勝った政党に公務員も全面的に従えと説くことは、やはり猟官制の時代に戻ることになり、歴史を逆行させることになると思っています。

――民主党は、アメリカの猟官制の歴史などをきちんと知らないということでしょうか?

知らないのでしょうね。民主党を観察していると、ある意味では真剣に良かれと思ってやっているようなところもあるように思います。しかし、今の時代にそれを説くことの現実的な意味ははっきりしていて、橋本行革で出て来た政治主導の流れから小泉構造改革に象徴される政治主導によって、貧困と格差が拡大するという反国民的な結果になっているわけです。

この政治主導がもたらす反国民性を見ないで、ただ選挙で勝った方に公務員も全面的に従うことが国民主権と議院内閣制の要請だという論理は非常に危険な面をもっています。

小選挙区制のもとでの「政治主導」は根本に問題あり

――選挙自体も小選挙区制で民意が反映されていないという問題もあります。

そうですね。政治主導論は、小選挙区制を前提とする政権交代可能な政治を前提とするものですが、そもそも得票率と議席占有率の大きな乖離を不可避とする小選挙区制のもとでは、政権与党が国民の多数派であり民意が反映されているという前提自体に根本的な疑問があるわけです。

実際、過去2回の小選挙区制での選挙結果を見ると、2009年の総選挙では民主党が47%の得票率で74%の議席を獲得し、また2013年の総選挙では自民党が43%の得票率で79%の議席を獲得しているわけです。このことは、国民の多数意思にもとづく政権交代という構図がいかに虚構に満ちたものであるかを示しているわけです。政治主導論の根本に問題があるのです。

民意を反映する手段は選挙だけではない

それから、国民主権のもとでは、国会議員選挙が民意を反映する最も重要な機会であることは否定できませんが、それと合わせて、多様な手段を通して政治過程に民意を反映することが現代民主主義の不可欠な要請ということになります。情報公開や各種行政手続き、公聴会・審議会制度の整備、住民投票・直接請求制度の採用など、そのときどきの政策決定に民意を反映させるための多様な制度や仕組みがそれであり、たとえ選挙公約に掲げた政策であっても、これらのいろいろな手段を通して少数意見を含む国民の多様な意見を反映しながら政策の決定・執行に当たることが、政権にとっては求められるのです。数年に1度の選挙の結果でつくられた議会多数派の意思こそ民意であるとして、与党と内閣による政治主導・官邸主導を強調することは、場合によっては、民意の正しい反映を妨げるだけでなく、「民意」を口実とする「与党独裁体制」を招くことになりかねないわけです。

政治主導論に基づく「縦割り行政」批判の危険性

――縦割り行政の弊害で省益が優先され、霞が関に権限が集中しているからダメなんだという主張が常にあります。この点についてはどう考えればいいでしょうか。

本当の意味で行政が国民生活に背を向けている原因は、政官財の癒着や行政の官僚主義などに原因があるわけですね。たとえばキャリア官僚の「天下り」を例にとると、経産省から原発産業へとか、防衛省から軍需産業へとか、たくさんあって、これは当然あってはならないことなのですが、その本質的な問題はまったくアンタッチャブルにしておいて、第1次安倍政権がそれを根絶すると言って国公法を「改正」しましたがまったく変わっていない。むしろそれがおおっぴらに許される状況になってきているという問題があります。

また官製談合など、ときどき表に出るような問題もあって、これ自体は誰が見ても良くないことですから、それ自体は国民的な観点からも絶対に正さなければいけないことで、少しは国会で追及されたりするわけですが、本当に切り込もうとはしていない。構造には手は付けないわけです。他方で、霞が関が強固で縦割りだから政治のやろうとしている国民のための施策が阻害されている、だから地方分権を、という話などにもなってくるのですが、結局本当に正さないといけないところには切り込まないで、それを温存したまま官僚制そのものが悪だという印象を国民に植え付けようとしている。どこまで意図的かどうかは別として、結果的にそうなっていると思うのですね。

ところがそれによって何が起きるかというと、結局、曲がりなりにも国民のためにやっている省庁の仕事が時の政権による新自由主義的な政策の妨げになると、それをつぶすために縦割り行政の批判を利用したりするわけです。これは、小泉構造改革以来とりわけ目立つ手法で、ターゲットになっている省庁の一つは厚生労働省ですね。とくに労働規制緩和の問題で厚労省もあまりきちんとしていない面はあるのですが、それでもギリギリ労働者のために一定のところまでは抵抗しているところもある。それを構造改革の阻害要因だということでバッシングする。混合診療の問題でも同じで、国民サイドに立っている省庁を縦割り行政で批判して、結局、政治主導が妨げられるということに帰結させていくわけです。その側面を十分見ないで「霞が関が悪い」というだけの議論は非常に危ういのです。ここがいま盛んに政治サイドから行われている縦割り行政批判、霞が関批判の大きな問題点の一つだと思います。

それに、実際に省庁で働いている圧倒的多数の職員は国公労連にも結集する普通の公務労働者なわけで、その人たちは別に縦割り行政で自分の利益のためだけに仕事をしているわけでもありませんし、仮に縦割り行政に固執したからと言って自分の利益に跳ね返ってくるわけでもありません。圧倒的多数の職員は、国民のために働いているし、労働運動においてもすべての労働者のためにたたかっているわけです。そこも一緒くたにして批判の対象にするということで、こうしたバッシングというのは、単なるまやかしではなく、二重三重のまやかしで、非常に悪い機能を果たしていると思います。

これらは政治主導の立場に立った官僚批判ですが、最近は、それとは別に一般国民のレベルでの公務員バッシングは、かつてとは結構変わってきているのではないかという感じがしています。

かつては本当に素朴な意味で、「窓口に行くと公務員は働いていない」とか「新聞ばかり読んでいる」とか「給料が保障されている」というのが80年代は強かったですよね。マスコミの批判もそういうものと、「公費天国」などというお金を湯水のように使うというのが随分話題になりましたが、そういう時代からみると、本当に身近にいる公務員そのものにやっかんだり、批判したりというのは前ほど強くなくなっているのではないかと思うのです。むしろ公務員も大変だというのが国民にもわかってきた。たとえば教員が長時間労働でいかに大変かということなどが分かってきているので、そこは一つ、労働運動の拠り所にもなるのではないかと感じています。

むしろ今問題なのは、政治部門による意図的な、政治主導論に基づく省庁批判、官僚批判であって、国民との関係でいえば、公務員バッシングは以前よりは薄らいできているのではないか。結局、国民自身が非常に大変な状況になってきていて、公務の職場も「官製ワーキングプア」の深刻な状況であるとか、民間の職場と同様に深刻になってきていることが分かってきて、そこを理解し合える状況が逆にこの間の構造改革の中で生まれてきているという側面があるのではないかと思っています。

国民サービスを切り捨てる「二重行政論」

――道州制、地方分権の流れが一貫してあり、二重行政の弊害で無駄だという批判があります。

本当に実態として無い方がいい二重行政というのは何があるかということですね。一つで済むのに、全く同じことを輪をかけて二つやっている。誰がみても無駄だというのはもちろん、二重行政と言うかどうかは別として、やめればいいだけの話であって、現実を見ると本当にそれぞれが国民・住民に必要であって、それぞれがもっと本当は強化しなければいけないのに手薄だというのがほとんどではないかと思うのです。

それが分かりやすい例は、大学ですね。ある県に国立大学があり、県立があり、市立もあると。これが二重三重行政だから一つにしようという議論はおかしいわけですね。橋下徹氏はそれでもそれをやろうとしているわけですが、普通であればいろいろな種類の大学があった方がいいわけです。病院もそうですよね。国立病院があり、自治体病院があり、民間もあって、これが二重三重だからけしからんなどという議論は住民サイドからは出ないわけです。それはハローワークと県が独自にやっている労働行政との関係でもそうだし、どっちもそれぞれ必要なわけです。

結局、二重行政論というのは、そこを覆い隠しながら、なんとなく同じことを無駄に二重にやっているのではないかというバッシングによって結局は国のものを潰したり、地方に移管させたりする。それが地方分権でまた正当化されるという面があります。それで地方も国の出先も弱体化し、結局、県に移ったから県がきちんとやれるかというと、それも現状では保障されないので、地方も疲弊していって、残った最後の手段は道州制だということになっていく、今の地方創生の議論を見てもそういう方向になっているのではないかと思います。

――本日は長時間、ありがとうございました。

井上 伸雑誌『KOKKO』編集者

投稿者プロフィール

月刊誌『経済』編集部、東京大学職員組合執行委員などをへて、現在、日本国家公務員労働組合連合会(略称=国公労連)中央執行委員、労働運動総合研究所(労働総研)労働者状態分析部会部員、福祉国家構想研究会事務局員、雑誌『KOKKO』(堀之内出版)編集者、国公一般ブログ「すくらむ」管理者。著書に、山家悠紀夫さんとの共著『消費税増税の大ウソ――「財政破綻」論の真実』(大月書店)がある。ここでは、行財政のあり方の問題や、労働組合運動についての発信とともに、雑誌編集者としてインタビューしている、さまざまな分野の研究者等の言説なども紹介します。

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