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「苦しい」と訴えることを許さず、被害者側の若者に「自分に責任がある」と感じさせ、社会に問題を投げ返すことは理不尽だとバッシングし、若者を徹底的に無力にする「自己責任論」
(2009年4月に書いたものです)
中西新太郎横浜市立大学教授の講演を聴く機会がありました。私が関心を寄せたところの要旨になり大変恐縮ですが紹介させていただきます。(文責=井上伸)
苦しいけれど声が出せない日常を生きるのが多くの若い世代の常態になっています。若者のみならず、日本社会に生きるあらゆる世代の人々に生活苦がのしかかり、毎年3万人もの自殺者を出す。そういう時代に私たちはいるのです。世界でもっとも「洗練」された消費文化が不断に供給する「心地よい場所」があふれ、心地よい過ごし方に誘う山ほどのしかけの中で、孤立し声の出せない生の現実はかき消され見過ごされています。
そんな時代に対する、社会に対する違和感を持つことさえも間違いで、自分のいたらなさを棚に上げた逆恨みだと言われかねない。しかし、支配の言説によって現にそう決めつけられている状況が広がっていることにこそ異様なことなのだと言う必要があるのです。
「将来の夢」を「完璧な化石になりたい」と書いた中学生の例があります。誰からも何もはたらきかけられないでいたいという願望です。自己を開かないよう強要する内閉化の圧力が、若い人たちのメインカルチャーに浸透しています。たとえば、意気地なし、甲斐性なしを意味する「ヘタレ」と自己規定してはじめて、世界に存在することが許されるということです。「ごめんなさい、だめなボクです」と最初に自認もし、謝っておくところから話を始めるのです。
直接「苦しい」と訴えることは許されないと思う多くの若者たち。リストカットにしても、「他人に負担をかけてしまう汚い私」という自己像を築かないと話すことができません。「苦しい」と訴えるのではなく、「決して他の人に責任を負わせるのではありません」という表現様式をとることによって、かろうじて存在できると思ってしまう。そんなポジションのとり方しか許されないきわめて残酷な社会になってしまっているのです。「苦しい」と言ったり、リストカットが、周りに対する「あてつけ」や「攻撃」ではないことを表明するためにそういう表現様式をとり、本当にすべての責任を自分が引き受けることになってしまう。この文化的な抑圧の構造は、とりわけ被害を被っている人たちにとって、情け容赦なく襲いかかるものになっています。90年代に「いじめ」で自死した子どもたちに対するまなざしは「あてつけで死んだ」というもので、死を選ぶほうが「私がいたらなくて死んでいくのです」と謝りながら死んでいくという逆転が起こっているのです。
被害を被っている側に「自分に責任がある」と感じさせてしまう。つまり困難を内閉化させる抑圧様式は日本社会のいたるところに蔓延しているのです。一人ひとりが抱える困難をその人の内側へと閉じ込める強烈な力がはたらいています。被害者に異議を申し立てる権利があると言わせない、思わせない、封殺する強烈な力です。責任を偽装する、きわめて深い抑圧の姿といえるでしょう。
このメカニズムが一般化している社会では、明白な被害を外部に明らかにし応答を問うこと、他者や社会に問題を投げ返すことが逆に理不尽な振る舞いのようにみなされ非難されることになります。そして、抑圧された者たちを徹底的に無力にしていく思想的回路として、「自己責任論」があるのです。
戦後日本社会で利己主義の傾向、義務や責任をともなわない格好で権利だけを主張する風潮が出てきたから、「自己責任」の原則が失われたと政府は言います。たとえば、事故が起きたのは政府の責任だといった責任回避が広がってしまったと。これはお上のいいなりになるなという主張とセットになっているので、そうだなと感じてしまうかもしれません。しかし主張の核心は「社会や政治に責任を転嫁するな」ということなのです。戦後日本社会の無責任な体質が、「自己責任」の原点を失わせてきたのだから、原点に返り、各人の「自己責任」を確認することが必要だというわけです。
いま様々な分野で政府が盛んに使う言葉に「自立」があります。政策言語としての「自立」は、公的・社会的な支援に頼らずに「自己責任」で生きていけという意味なのです。
医療や社会保障が、生存権を保障するための政策なら、様々な事情が重なり自立できない人たちが対象となりますが、「自立支援型」の政策では、「自立」の見込みや「意欲」の有無という新たな尺度で対象者を再分類します。これが端的にわかるのが、リハビリ期間の制限などで、リハビリしても改善の見込みがないと「分類」された人間にたくさんお金をかけるのはもったいないからリハビリを制限するというものです。
生存権を平等に保障するという考え方が崩れると、どのような結果が表れるでしょうか。意欲や見込みのあるなしは、権力者によって認定・選別され、保障を得るには、自分は意欲も自立の見込みもない「真の弱者」だと認めなければいけないということになります。生活保護は他の手段が尽きて申請するのに、「本当に何も力がありません、なんとか救ってください」と言うならばいい、となるのです。
つまり、自立できない存在は完全に無力であるとされ、自立できぬ以上他の人よりも低い処遇に甘んじるよう社会的に強制されるのです。「国家の慈悲によって初めて人権を保護される」存在となるわけです。19世紀に福祉国家が出てくる前までは通用していた「残余的福祉」という考え方である「社会に余裕がなければどうしようもないから、死んでもらうしか仕方ないけれど、そのまま死なすのはかわいそうだから、残余で福祉をあげるが、文句を言わないでください」と扱われ、「真の弱者」にさせられるのです。これは生存権を保障することとはまったく違います。
いま議論されているのは、生活保護法に見合うような水準まで最低賃金を上げるのではなく、生活保護水準を下げることです。「生存権」切り下げが具体的に進むと、どうなるでしょうか。「真の弱者」に陥らないように努力を見せ続けることを要求されながら、公的・社会的な支援を受けないというのが「自立」の中身となるのです。足りない分は生活保護を受けたいと言ったら、「自立していない」「意欲がない」となる。つまり、「自立支援」は、「真の弱者」をあぶり出し、同時に、「自立」して頑張ろうと思う者を「貧困な自立」の状態に固定していく、という結果を招きます。
「ワーキングプアの状態でも頑張れます」という人が増えれば増えるほど、「あの人たちは頑張ってたいした時給でもないのに自立してやっているのに、〈真の弱者〉という状態で甘んじて生きている人間はなんだ」と責めながら、「自立支援」という政策を使って絶対的な貧困を受け入れさせるという、生存権損壊のスパイラルが出現することになるのです。
生存権が脅かされ貧困による死までが許容される状況では、人権の獲得が本当に十分に議論されているのか疑問です。生活保護を申請できずに亡くなったケースは生存権の普遍的な性格の侵害だから、個人の死にとどまらず、社会のあり方に連動して変えなければいけない問題です。
困難な状態に置かれた人々が無条件に不当さや困難さを言う権利と、それを受け止める社会的な義務を具体的に実現する必要があります。「おまえは働いてもいないのに、そんなことを言うな」などと責めることがないだけでなく、“困難な状況から発した言葉”、さらには“言葉を発せない場合の沈黙”も含めて社会の側が義務として受け止めるようなメカニズムをつくることがいま求められているのです。