森友事件の影の主役は内閣人事局=霞が関キャリア官僚は「安倍政権の奉仕者」で縁故・腐敗・汚職・大統領暗殺まねいた200年前のアメリカ猟官制時代と同じ

  • 2017/3/26
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▲上記の小沢一郎氏のツイートの意味するところが、非常によく分かるインタビュー記事を私、まとめたことがありますので、以下紹介します。(私が、2014年10月にインタビューしたもので一部抜粋になります)

 

公務員の役割と権利を考える
晴山一穂 専修大学教授インタビュー

重要な憲法の視点から考える公務員の役割
国民主権など憲法3原則ふまえ「全体の奉仕者」へ

 

――きょうは晴山先生に「公務労働者の役割と権利」についてお話をうかがいます。最初に公務員の役割についてお聞かせください。(聞き手=国公労連調査政策部・井上伸)

公務員の役割を考える場合、常に2つの基本的な視点を持つことが重要です。1つは、日本国憲法の視点で、もう1つは、公務員制度の歴史から見た現代国家における公務員の役割という視点です。

まず、憲法の視点から公務員の役割を考えることの重要性についてです。日本国憲法が直接公務員のことを規定した条文としては憲法15条の1項と2項があります。ただし、15条の意味を考えるにあたっては、憲法の基本原理である国民主権と基本的人権の保障、そして平和主義という憲法3原則を踏まえた上で、行政の担い手である公務員の位置づけについて、15条で規定していると捉えることが大事になります。国民主権など憲法3原則を除いた形で15条だけ単独で取り出して公務員の役割を考えるということは適切ではないわけです。

この点を踏まえた上で憲法15条をみていきましょう。15条1項では「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とし、2項では「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と規定しています。この1項と2項はいずれも憲法の基本原理である国民主権の表れなのですが、この規定の意味をより深く知るためには、戦前の官吏制度を振り返ってみる必要があります。

「一部の奉仕者」だった戦前の公務員

戦前の官吏(現在の国家公務員の中核部分に当たる人)は、大日本帝国憲法(明治憲法)のもとで、「天皇の官吏」として天皇に身分的に隷従し、天皇とその政府にだけ奉仕する存在でした。国民から見れば、絶対的な主権者であり統治権を総攬する天皇に奉仕し、国民を支配する特権階級だったわけです。そして、官吏の任命は、議会も関与できない天皇だけの権限であるといういわゆる「任官大権」が憲法で定められていました。こうした強大な官吏集団と軍部に支えられた絶対主義的天皇制、天皇主権のもとで、日本は軍国主義国家としてアジア諸国への侵略戦争へと突き進み、太平洋戦争を経て敗戦を迎えることになります。

こうした歴史への反省に立って、戦後の日本は、天皇主権に立つ大日本帝国憲法から国民主権に立つ日本国憲法へと転換を遂げることになります。戦前の「天皇の官吏」のあり方は全面的に否定され、公務員は国民全体の奉仕者になるとともに、「任官大権」も否定され、公務員を選ぶのは国民固有の権利であることを15条1項で明記させることになります。

もちろん、実際にすべての公務員が選挙で国民に選ばれるわけではありません。現在選挙で選ばれるのは国会議員と地方自治体の長、地方議会の議員ですが、国の場合には、国民によって選ばれた国会の多数派が内閣を組織し、内閣を構成する各省大臣が公務員を任命します。地方の場合にも、住民が選んだ長が公務員を任命する、ということを通して、つきつめれば国民に公務員の選定権があるということになるのです。つまり、公務員の地位は、国民から離れた一部の権力者によって付与されるのではなく、究極的には国民の意思によってのみ成立する、という国民主権という鏡を通して公務員の地位を照らし出した規定が15条1項になります。

15条2項の公務員が「全体の奉仕者」であるということも、同じ考えに立つものです。とりわけ注意する必要があるのは、公務員は「一部の奉仕者ではない」とわざわざ付け加えられているところです。これは、戦前の官吏のように、天皇を頂点とする一部の支配者に奉仕するのではなく、まさに国民全体に奉仕すべき存在であり、国民主権に立った公務員であるということを明確に性格規定しているのです。

公務員制度の歴史から見た現代国家における公務員の役割

――2つめの視点としてあげられた、公務員制度の歴史から見た公務員の役割とはどういうことなのでしょうか?

公務員制度の歴史から見た現代国家における公務員の役割を考える際に、参考になるのが、アメリカの公務員制度の歴史です。また、戦後日本の国家公務員制度は、アメリカの公務員制度にならってつくられたもので、憲法の制定と並行しながら、GHQが自国の専門家を呼んで、憲法の理念を踏まえながら国家公務員制度のあり方が構想され、国公法が制定されたわけです。その点からしても、アメリカの公務員制度の歴史を踏まえておくことが日本の公務員制度を考えるときにも大切なのです。

19世紀当初のアメリカの公務員制度は、猟官制という慣行が支配していました。猟官制というのは、一言でいえば、大統領選挙で政権が代わるごとに大量の連邦公務員を更迭する仕組みです。アメリカでは早くから2大政党制が発達するわけですが、そのもとで、ある政党が大統領選挙で勝利すると、その政党の支持者を公務員に任命します。そして、次の選挙で別の政党の大統領が当選すると、今度はその政党の支持者へと公務員を入れ替えます。これが猟官制の基本的な仕組みです。

ある意味ではこの猟官制はアメリカ的な民主主義の表れともいえるわけです。民意に従って政権を選び、その政権が民意を踏まえた政策を徹底して遂行するために、それを支持する公務員で固める。そして次の機会に民意が変われば、それに従う。非常に単純に考えれば民主主義の究極の形態ともいえるのですが、官職を得るために政治家と金銭でつながるなど行き過ぎた猟官運動が広がる中で、次第に当初の民主的理念を失い、腐敗の度を強めて、最後は大統領が暗殺されるという事件まで起こってしまいます。

アメリカの猟官制の腐敗と高度で専門的な
職務への変化による成績主義の確立

他方で、資本主義の発展に伴いさまざまな社会的矛盾が激化する中で、国家機能が著しく拡大・多様化し、公務員の職務内容も当初の比較的単純な職務から高度で専門的な職務へと大きく変化します。猟官制で選挙のたびに入れ替わる数年間だけの公務員というのでは、その高度で専門的な職務を担うことはもはや不可能になっていきます。

この猟官制の腐敗と、高度で専門的な職務への変化によって、アメリカでは、100年くらいの長い歴史を経て、猟官制から成績主義へと移行が進められることになります。

成績主義というのは、党派的立場によってではなく、公務の担い手としての客観的な能力や資格を備えているかどうかを基準に公務員を任用するというものです。成績主義による公務員の役割は、時の政権の政治的支持者として政権に奉仕することではなく、自らの専門的能力を活かして、政権交代の有無を問わず永続的な立場に立って、公正中立の観点から国民全体に奉仕することにある、ということになります。

こうしたアメリカでの猟官主義から成績主義への転換を踏まえた形で、現在の日本の公務員制度ができ、成績主義を踏まえた憲法の「国民全体の奉仕者」という日本における公務員の役割が基本的に確立されたわけです。

アメリカの成績主義やドイツのワイマール憲法から
日本国憲法の「全体の奉仕者」が生まれた

――アメリカでの猟官主義から成績主義への移行と、日本国憲法が制定される時に「全体の奉仕者」と明記されたのは、どういった時間軸での関係になるのでしょうか?

アメリカの猟官制が腐敗していったのが19世紀半ばから後半にかけてで、資本主義の高度化が19世紀末から20世紀でした。そこから大きく転換して、今の現代的な公務員制度の元になった法律が1883年にアメリカで制定されます。

しかし、そこで一気に成績主義に変わったわけではなく、完全に成績主義に変わるまでにはごく最近までかかっています。アメリカでは20世紀初頭からそういう流れになって、戦後日本のモデルにした時には大きく成績主義に転換を遂げつつあったということです。

それから、「全体の奉仕者」という規定が憲法に盛り込まれた理由については、最近、憲法の制定過程を調べ始めています。具体的にこれが理由だという明確なものはまだわかっていないのですが、同じ規定がワイマール憲法にあったということがわかっています。ワイマール憲法は第1次世界大戦後、ドイツの社会民主党政権のもとでできた、その時代の最も先進的で民主主義的な憲法と言われています。そのワイマール憲法には、「ドイツの官吏は国民全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない」という規定があるのです。日本国憲法の制定はGHQの十数名のメンバーが中心になって起草しているのですが、法律の専門家が多くて、世界各国の憲法と日本の各種憲法草案も取り入れながら、いわゆるマッカーサー草案をつくっていったと言われています。その過程の中で、「全体の奉仕者」の規定についてはワイマール憲法が参考にされたということが共通して言われていることなのです。

そうすると、日本国憲法15条1項・2項は、猟官主義から成績主義へというアメリカの歴史だけではなく、ドイツのワイマール憲法も含めて、普遍性を持った現代国家における公務員の位置づけを定めた規定ではないかと最近は考えるようになっています。

「一人ひとりの人民の集合体としての
コミュニティ全体の奉仕者」=公務員

憲法制定過程はもっと調べていきたいと思っていますが、もうひとつ気になっている点について言うと、日本国憲法15条2項の英文の規定は「Public officials are the servants of the whole community」で、全体社会と言いますか、国家でもなく、ただの全体でもなく、まさに人々の集合体であるコミュニティというのが起草したもともとの言葉なのです。それを「全体の奉仕者」という非常に抽象的な日本語を使ったものですから、「全体主義的」な意味で捉えられたり、「全体の奉仕者」だから公務員は国家に尽くせ、ストライキなんかとんでもない、といういわゆる権威的な「全体の奉仕者論」になってしまうという負の側面も出て来てしまいました。当初の最高裁などは、それによって公務員の労働基本権の制限を合理化しました。

英文規定はGHQとやりとりした日本の法制局の官僚が日本語に訳したわけですが、意図的に「whole community」を「全体」と訳したのではないかという指摘もあります。せめて国民をつけて「国民全体の奉仕者」と規定すべきだったのを、国民も落として「全体」としたのではないかというわけです。この点についてもどこまで信憑性があるか確認しなければいけない問題なのですが、いずれにしても15条における「全体の奉仕者」というのは、もともとは抽象的な「全体の奉仕者」ではなく、文字通り「一人ひとりの人民の集合体としてのコミュニティ全体の奉仕者」が公務員なのだという趣旨です。その意味でも、非常に普遍性をもった国民主権のもとでの公務員のあり方だと捉えるべきではないかと考えています。

公務員が「全体の奉仕者」であることを確保する仕組み

――公務員が「全体の奉仕者」であることの意味はわかりましたが、そのことを確保するためにはどのような仕組みが必要になるのでしょうか。

指摘してきたように、憲法の視点と公務員制度の歴史という2つの視点から、現在の公務員は、一党一派に奉仕するのではなくて、自らの専門的能力を踏まえて、公正中立の観点に立って国民全体に奉仕すべきものということになります。

しかし、それを現実的に保障する制度なりシステムが存在しないと、時の政権の意向で「政権に従うことこそ全体に奉仕することなんだ」などという政治的な支配を受けかねないことになります。ですので、それを防いで、公務員が全体の奉仕者として国民全体のために職務を遂行することを確保する仕組みが必要となります。そのための制度上の原則が、いわゆる「公正中立性」といわれるものです。この公正中立性という言葉を悪用して、公務員そのものが公正中立でなければならないとして公務員の政治活動の自由を制限し正当化するケースがありますが、これは間違った使い方です。本来の正しい意味での公正中立性とは、人事行政の公正中立性を指し、政治が公務員に対して様々な支配や関与をすることを防ぎ、公正中立な人事行政のもとで公務員が国民全体のための奉仕者として職務を遂行できるようにするという意味での公正中立性ということになります。

その最も重要なものが、公務員の身分保障です。簡単にいえば、法令の定める事由によらなければ免職や降任されないということで、その免職や降任の理由も法律で厳格に制限し、客観的にそれを解釈していくことによって恣意的な免職等によって公務員の身分が脅かされないということが一つです。

もう一つは、今でいえば人事院制度ということになるわけですが、もう少し一般化して言えば人事行政全体を担う政府から独立した公正中立な第三者機関の存在が必要になってくるということです。これは、国でいえば人事院、自治体でいえば人事委員会ということに今はなるわけですが、こういう話をすると、組合活動を一生懸命やっている人は「そんなこと言ったって今人事院は給与制度の総合的な見直しで酷いことをやっているじゃないか」「人事委員会はもっと酷いじゃないか」という意見がかなり出るのですね。それは確かにそうなので、そこは正していかなければいけない課題として踏まえておく必要があるのですが、公正中立の第三者機関の存在によって公務員の全体の奉仕者性を支えるという、本来の第三者機関の役割がすごく重要だということは常に意識しておいて欲しいのです。その点を踏まえずに「人事院はいらない」ということにしてしまうと、今の政府の動きから考えても非常に危ういことになりますので、そこは常に意識すべきだと強調しておきたいと思います。

政治主導をめざす国公法「改正」

――今回の国公法「改正」については、どう見ていますか?

この春の国公法「改正」で、幹部職員を初めて国公法で定義づけました。事務次官、局長、部長ということですが、そこだけ普通の職員と切り離して独自の類型として法的に位置づけた。その上で、その幹部職員の人事については内閣総理大臣と官房長官が一元的に行うという具体的な仕組みをつくったわけですね。そして、それを事務的に支えるために内閣に内閣人事局を設置しました。

これは数年前の自公政権で最初に法案が出て、成立しないまま民主党政権に引き継がれ、民主党政権でも基本的に同じ内容の法案が出されたわけですが、それも廃案になった後に、安倍政権のもとでようやく成立したということになります。つまり、安倍政権が成立したから国公法「改正」が通ったということではなく、自公政権、民主党政権含めて、この間の一つの共通する流れとしてあったということになります。

それを支える考え方がいわゆる「政治主導」ということになるわけです。政と官の関係について従来のあり方を大きく見直し、選挙で勝った政党が内閣を構成するのが本来の議員内閣制であるから、選挙で国民の信を得た政策を実行していくために、公務員、官僚を統制しなければならないというわけです。官僚はそれに従うことこそが本来の役割だということなる。その論理を支えるもう一つが、いわゆる「霞が関解体」論です。今の官僚制度は省庁縦割りで、それぞれが省益だけを追求しているので、ここを解体しない限りは国民の要求は実現しないんだという話になっているわけです。

少しさかのぼると、橋本内閣以降の行政改革の流れの中で、政治主導論というのが日本の政治と行政のあり方を大きく変えてきました。これとセットになっているのが政治改革ということであり、90年代始めに紆余曲折の末に政治改革法案が成立し、2大政党制に向けて小選挙区制を導入したわけです。政権を競い合う二大政党を形成して、その2大政党がマニフェストを掲げて政権を争い、選挙で勝った方がマニフェストを全面的に実行していく。そして、公務員はすべてこれに従え、という論理です。

これを主導したのは財界ですが、そのシンクタンクといっていい21世紀臨調の動きをずっと追っていくと、じつに見事に21世紀臨調の主張に沿っています。そして、この政治主導の論理を最も有効に活用したのが小泉政権で、経済財政諮問会議を大活躍させて新自由主義改革をどんどんやって進めたわけです。そういう流れのなかで今日まで来ているのだろうと思っています。

国家公務員制度改革もその流れのなかで、従来の公務員制度改革とは性格が変わってきました。2001年に出た公務員制度改革大綱が今の流れにつながる出発点ではないかと私は思っているのですが、そこで橋本行革で器は整ったけれど魂が入っていない。これに魂を入れるのが公務員制度改革だというのを打ち出したわけですね。それ以降、政治主導論の流れが今日まで続いてきて、今回の国公法「改正」に結びついたというふうに大きな流れとしては見るべきだろうと思っています。

今回の国公法「改正」は時代に逆行するもの

――政治主導というのは、アメリカの猟官制に戻るというように考えていいのでしょうか?

そう見えますね。これまで指摘してきたように、公務員制度の歴史的な流れにはまさに逆行するわけですね。アメリカで猟官制が比較的腐敗しないでやっていくことができた時代は、それほど公務が複雑化・高度化していなかったわけで、多少知識がある人であれば誰でもやれるという状況だったのです。それが選挙で勝った政党のためにというところと結びついていたので、いってみれば民主的な理念がそれなりにシステムとしての猟官制を支える時代状況があったからこそやっていくことが可能だったわけです。

ところが、今やそんなことはもう現実的にできない。いくら猟官制をやろうとしても不可能なくらい公務自体が多様化・複雑化・高度化してきた中で、政治とは違う公務員独自の役割が出てきたわけです。もちろん最後は国民主権ですから、最後のところでは政治に従わなければいけない、政権に従わなければいけない、これは全面的に否定できないのですが、しかし、ただ政治に公務員が服従していればいいという話ではなくて、公務員が場合によっては政治も正すという観点から公務の専門家として意見を述べ、できるだけ国民全体の奉仕者としての公務員の役割を政治に反映させていくことが必要になっているのが現代なのです。

本当はそれをきちんと保障する仕組みが必要で、日本の場合はなかなかそれがなくて大変なのですが、本来的にはそういう役割を公務員は持っているわけです。私が描く政官の正しいあり方は、公務員は専門家として中立公正の立場で、どんな政党が政権についていようとも、時の政権に可能な限り自らの意見を反映させていく役割があるということです。他方で政治家の役割は、公務員の中立公正さを最大限尊重して、幅広くいろいろな意見を吸い上げ、最後は政治の責任で決めて実施し、その責任は選挙で問う。これが現代の政官の本来あるべき姿だと、私は考えています。

この現代の到達点から今の政治主導論を見ると、マニフェストで競い合って勝った政党に公務員も全面的に従えと説くことは、やはり猟官制の時代に戻ることになり、歴史を逆行させることになると思っています。

――民主党は、アメリカの猟官制の歴史などをきちんと知らないということでしょうか?

知らないのでしょうね。民主党を観察していると、ある意味では真剣に良かれと思ってやっているようなところもあるように思います。しかし、今の時代にそれを説くことの現実的な意味ははっきりしていて、橋本行革で出て来た政治主導の流れから小泉構造改革に象徴される政治主導によって、貧困と格差が拡大するという反国民的な結果になっているわけです。

この政治主導がもたらす反国民性を見ないで、ただ選挙で勝った方に公務員も全面的に従うことが国民主権と議院内閣制の要請だという論理は非常に危険な面をもっています。

小選挙区制のもとでの「政治主導」は根本に問題あり

――選挙自体も小選挙区制で民意が反映されていないという問題もあります。

そうですね。政治主導論は、小選挙区制を前提とする政権交代可能な政治を前提とするものですが、そもそも得票率と議席占有率の大きな乖離を不可避とする小選挙区制のもとでは、政権与党が国民の多数派であり民意が反映されているという前提自体に根本的な疑問があるわけです。

実際、過去2回の小選挙区制での選挙結果を見ると、2009年の総選挙では民主党が47%の得票率で74%の議席を獲得し、また2013年の総選挙では自民党が43%の得票率で79%の議席を獲得しているわけです。このことは、国民の多数意思にもとづく政権交代という構図がいかに虚構に満ちたものであるかを示しているわけです。政治主導論の根本に問題があるのです。

民意を反映する手段は選挙だけではない

それから、国民主権のもとでは、国会議員選挙が民意を反映する最も重要な機会であることは否定できませんが、それと合わせて、多様な手段を通して政治過程に民意を反映することが現代民主主義の不可欠な要請ということになります。情報公開や各種行政手続き、公聴会・審議会制度の整備、住民投票・直接請求制度の採用など、そのときどきの政策決定に民意を反映させるための多様な制度や仕組みがそれであり、たとえ選挙公約に掲げた政策であっても、これらのいろいろな手段を通して少数意見を含む国民の多様な意見を反映しながら政策の決定・執行に当たることが、政権にとっては求められるのです。数年に1度の選挙の結果でつくられた議会多数派の意思こそ民意であるとして、与党と内閣による政治主導・官邸主導を強調することは、場合によっては、民意の正しい反映を妨げるだけでなく、「民意」を口実とする「与党独裁体制」を招くことになりかねないわけです。

政治主導論に基づく「縦割り行政」批判の危険性

――縦割り行政の弊害で省益が優先され、霞が関に権限が集中しているからダメなんだという主張が常にあります。この点についてはどう考えればいいでしょうか。

本当の意味で行政が国民生活に背を向けている原因は、政官財の癒着や行政の官僚主義などに原因があるわけですね。たとえばキャリア官僚の「天下り」を例にとると、経産省から原発産業へとか、防衛省から軍需産業へとか、たくさんあって、これは当然あってはならないことなのですが、その本質的な問題はまったくアンタッチャブルにしておいて、第1次安倍政権がそれを根絶すると言って国公法を「改正」しましたがまったく変わっていない。むしろそれがおおっぴらに許される状況になってきているという問題があります。

また官製談合など、ときどき表に出るような問題もあって、これ自体は誰が見ても良くないことですから、それ自体は国民的な観点からも絶対に正さなければいけないことで、少しは国会で追及されたりするわけですが、本当に切り込もうとはしていない。構造には手は付けないわけです。他方で、霞が関が強固で縦割りだから政治のやろうとしている国民のための施策が阻害されている、だから地方分権を、という話などにもなってくるのですが、結局本当に正さないといけないところには切り込まないで、それを温存したまま官僚制そのものが悪だという印象を国民に植え付けようとしている。どこまで意図的かどうかは別として、結果的にそうなっていると思うのですね。

ところがそれによって何が起きるかというと、結局、曲がりなりにも国民のためにやっている省庁の仕事が時の政権による新自由主義的な政策の妨げになると、それをつぶすために縦割り行政の批判を利用したりするわけです。これは、小泉構造改革以来とりわけ目立つ手法で、ターゲットになっている省庁の一つは厚生労働省ですね。とくに労働規制緩和の問題で厚労省もあまりきちんとしていない面はあるのですが、それでもギリギリ労働者のために一定のところまでは抵抗しているところもある。それを構造改革の阻害要因だということでバッシングする。混合診療の問題でも同じで、国民サイドに立っている省庁を縦割り行政で批判して、結局、政治主導が妨げられるということに帰結させていくわけです。その側面を十分見ないで「霞が関が悪い」というだけの議論は非常に危ういのです。ここがいま盛んに政治サイドから行われている縦割り行政批判、霞が関批判の大きな問題点の一つだと思います。

それに、実際に省庁で働いている圧倒的多数の職員は国公労連にも結集する普通の公務労働者なわけで、その人たちは別に縦割り行政で自分の利益のためだけに仕事をしているわけでもありませんし、仮に縦割り行政に固執したからと言って自分の利益に跳ね返ってくるわけでもありません。圧倒的多数の職員は、国民のために働いているし、労働運動においてもすべての労働者のためにたたかっているわけです。そこも一緒くたにして批判の対象にするということで、こうしたバッシングというのは、単なるまやかしではなく、二重三重のまやかしで、非常に悪い機能を果たしていると思います。

これらは政治主導の立場に立った官僚批判ですが、最近は、それとは別に一般国民のレベルでの公務員バッシングは、かつてとは結構変わってきているのではないかという感じがしています。

かつては本当に素朴な意味で、「窓口に行くと公務員は働いていない」とか「新聞ばかり読んでいる」とか「給料が保障されている」というのが80年代は強かったですよね。マスコミの批判もそういうものと、「公費天国」などというお金を湯水のように使うというのが随分話題になりましたが、そういう時代からみると、本当に身近にいる公務員そのものにやっかんだり、批判したりというのは前ほど強くなくなっているのではないかと思うのです。むしろ公務員も大変だというのが国民にもわかってきた。たとえば教員が長時間労働でいかに大変かということなどが分かってきているので、そこは一つ、労働運動の拠り所にもなるのではないかと感じています。

むしろ今問題なのは、政治部門による意図的な、政治主導論に基づく省庁批判、官僚批判であって、国民との関係でいえば、公務員バッシングは以前よりは薄らいできているのではないか。結局、国民自身が非常に大変な状況になってきていて、公務の職場も「官製ワーキングプア」の深刻な状況であるとか、民間の職場と同様に深刻になってきていることが分かってきて、そこを理解し合える状況が逆にこの間の構造改革の中で生まれてきているという側面があるのではないかと思っています。

井上 伸月刊誌『KOKKO』編集者

投稿者プロフィール

月刊誌『経済』編集部、東京大学職員組合執行委員などをへて、現在、日本国家公務員労働組合連合会(略称=国公労連)中央執行委員、労働運動総合研究所(労働総研)労働者状態分析部会部員、福祉国家構想研究会事務局、月刊誌『KOKKO』(堀之内出版)編集者、国公一般ブログ「すくらむ」管理者。著書に、山家悠紀夫さんとの共著『消費税増税の大ウソ――「財政破綻」論の真実』(大月書店)がある。ここでは、行財政のあり方の問題や、労働組合運動についての発信とともに、雑誌編集者としてインタビューしている、さまざまな分野の研究者等の言説なども紹介します。

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