ビリギャルの「努力」と駅前トイレで寝泊まりするトリプルワーク女子高生の「努力」の前提すらない貧困

  • 2015/8/18
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(※2015年5月に書いた記事です)

家族そろってハマってたNHK朝の連ドラ「あまちゃん」では、とりわけ有村架純さんのことを長女が注目してたので、その動向は気になるところだったりします。で、いま有村架純さん主演の映画「ビリギャル」がヒットしていて、映画の元ネタにあたる『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』(坪田信貴著、KADOKAWA/アスキー・メディアワークス)や、『ダメ親と呼ばれても学年ビリの3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話』(ああちゃん著、さやか(ビリギャル)著、KADOKAWA/アスキー・メディアワークス)の書籍もベストセラーになってるとのこと。しかし、「【支出】ビリギャルとトップギャル 親の学費はどう違う? 映画放映開始にあたり計算してみた。」の指摘を見ると、やはり、「子どもの貧困」問題との関連を紹介しておきたくなります。

【支出】ビリギャルとトップギャル 親の学費はどう違う? 映画放映開始にあたり計算してみた。」の指摘が正しいとすると、「中学校と高等学校の合計で335.2万円」「2年間の学習塾240万円」「慶応大学の学費548.5万円」で、ビリギャルの中学から大学までの学費と塾費用の合計は1,235万7千円になります。

上のグラフは、文部科学省「子供の学習費調査」(2012年度)による幼稚園3歳から高校3年生までの15年間の学習費総額です。すべて公立に通った場合では約500万円、すべて私立に通った場合では約1,677万円で、最も支出額が多いケースは、最も支出額が少ないケースの約3.36倍にもなっています。ビリギャルの「2年間の学習塾240万円」というのも貧困状態にある世帯ではとても負担できるものではありませんが、そもそも私立の学費自体も貧困世帯では負担できません。

この「社会経済的格差」と「学力」と「子どもの努力」がどういう関係にあるのかについて、内閣府「第2回子どもの貧困対策に関する検討会」(2014年5月1日)で、耳塚寛明お茶の水女子大学理事・副学長が「全国学力・学習状況調査(きめ細かい調査)の結果を活用した学力に影響を与える要因分析に関する調査研究」という報告をしています。この報告では、「家庭の社会経済的背景」(SES)という概念が使われていて、これは保護者に対する調査結果から、家庭所得、父親学歴、母親学歴の3つの変数を合成した指標で、当該指標を4等分し、Highest SES、Upper middle SES、Lower middle SES、Lowest SESに分割して分析しています。

この報告の結論をざっくりまとめると、学習時間(=子どもの努力)が学力に与える影響としてはポジティブな効果がどの「家庭の社会経済的背景」の子どもであっても、学習時間(=子どもの努力)が多いほど高い学力になっているけれど、学習時間(=子どもの努力)の効果は限定的で、「家庭の社会経済的背景」がLowest SESの子どもが毎日「3時間以上」勉強して獲得する学力の平均値は、Highest SESで「全く勉強しない」子どもの学力の平均値よりも低くなることから、「家庭の社会経済的背景」の不利を学習時間(=子どもの努力)で克服することは難しいということです。(▼下のグラフ参照)

さらにざっくり言うと、貧困状態に置かれている子どもはいくら努力しても、私立学校に通えたり、2年間で学習塾に240万円も支出できる状態にあるような子どもの学力に追いつくことは難しいということです。スタート地点が違い過ぎるということです。このことは、「親の年収多いほど高い学力」と文部科学省が分析していることとも符号しています。

最近、タレントの方が、「私達夫婦は、親の用意してきた道を歩んできたのではなく、学歴をつかみとってきたという誇りがある。努力の証明書として学歴がある」と発言しネットでも話題になっています。それに対して、赤木智弘さんが「努力という言葉に見る日本の落日」として次のように指摘しています。

 子供の学力は子供の意志に関係なく、子供の親が子供に対してしっかりと金を使い、勉強に没頭するような環境を用意できるかどうかで決まってくる。学歴というのは親が用意した道に他ならず、本人の努力すら親が用意したものなのである。(中略)「努力」が抑圧の言葉、他者を貶める言葉として使われる限り、日本の落日はまだまだ終わらないだろう。

出典:赤木智弘さん「努力という言葉に見る日本の落日」

 

この赤木智弘さんの指摘に同感です。上記の文部科学省の客観データも示すように、本人の努力すら親の年収に左右されるわけですから、高収入の人を努力した人と単純に讃え、低収入の人を努力しない人と単純に蔑むという、よく見られる「自己責任論」は客観的事実として間違っているわけです。それから、奨学金問題対策全国会議共同代表の大内裕和中京大学教授はツイートで次のように指摘しています。

 

それから、以前、私がブログで紹介している阿部彩さんの指摘です。

阿部彩さんは、2008年に「子どもの最低限の生活水準」についてのアンケート調査を実施。1800人を対象に、「現在の日本の社会においてすべての子どもに与えられるべきもの」について聞いたところ、いま全世帯の高校進学率は97.5%に達しているのに、アンケート結果では、「希望するすべての子どもが高校に行けるべき」と答えた人は61.5%、「希望するすべての子どもが大学に行けるべき」と答えた人は42.8%しかなかったのです。

このアンケート結果について、阿部彩さんは、次のようにコメントしています。「子どもが希望したとしても、親が貧困なら、高校にも大学にも行けなくても仕方がない――このような最低限の生活水準に対する貧しい価値観であるというのが残念ながら日本の現状といえます。これは、『貧困は自己責任』とする考え方が、親のみならず、その子どもにまで浸食しているといえるのかもしれません。こうした状況で、『教育の平等』や『機会の平等』を訴えても、支持されないはずです。しかし、『教育の平等』『機会の平等』が支持されない社会とは、どのような社会でしょうか。不利な状況を背負って生まれてきた子どもたちが、そのハンディを乗り越える機会を与えられない社会とは、どんな社会でしょうか。自らが属する社会の『最低限の生活』を低くしか設定せず、向上させようと意識しないことは、次から次へと連鎖する『下方に向けての貧困スパイラル』を加速させ、結局、社会全体の活力や生活レベルを下げていくことにつながります。私たちは、まず、この貧しい価値観、この貧しい“『子どもの貧困』を見る目”を改善しなければなりません。『子どもの貧困』に対する政治の無自覚は、じつは社会の無関心、私たちの無関心の裏返しでもあるのですから」
阿部彩さん談、文責=井上伸

以上のような指摘にあるように、「ビリギャル」がヒットする日本社会の一面として、いまだに6人に1人にのぼる子どもの貧困が日本を蝕んでいることには無自覚でありつづけ、「貧困は自己責任」「学歴も自己責任」「努力しない人間がダメなのだ」というディストピア的「努力主義」の根強さがあるのだと思います。「ビリギャル」の「ダメな人間などいない。ただ、ダメな指導者がいるだけ」という言葉は印象的だ。――とのことですが、「ダメな人間などいない」ということに本当の意味で共感するのなら、「駅前トイレで寝泊まりするトリプルワークの女子高生、100円ショップの薬用オブラートで空腹まぎらわす子ども、深刻な6人に1人の子どもの貧困を深刻化させ経済成長も損なう安倍政権」「自販機の裏で暖を取り眠る子ども、車上生活のすえ座席でミイラ化し消えた子どもたちの声が届かない日本社会」を改善するために「子どもの貧困」を根絶することにも共感を寄せて欲しいと思います。

最後に、以前、紹介した大内裕和中京大学教授と、田端博邦東京大学名誉教授の指摘を紹介しておきます。

戦後経済成長を支えてきた「努力すれば何とかなる」という努力主義が、努力しようと思ってもできない「不平等」や「不公正」を見えなくさせている。努力することは確かに美徳だ。しかしそれが努力を支える条件への視点を欠落させた「努力主義」となった時、新自由主義の「自己責任」を無批判に受容するイデオロギーとなってしまう。
(「生まれながらの差別」に鈍感な日本社会―― 「自分の子どもさえ良ければ」を乗り越えられるか)

北欧をはじめとするヨーロッパでは、大学の授業料が無料というだけでなく、大学生に生活費が支給されます。つまり、大学に行きたい人は誰でも生活が保障されて通学することができるのです。

ところが、日本などの「自己責任社会」では、教育費はプライベートに負担する考え方が支配的で、とりわけ高額な授業料となっている日本の大学教育においては自己責任が貫徹しています。教育費が私的に負担される「自己責任社会」では、私的負担の教育費は個人がそれによって将来の利益を得るためだけの投資と考えられ、それで獲得した知識や能力は、個人の利益を追求するためだけに使われるべきものと考えられることが多くならざるをえません。その教育費を負担することができない個人は、そうした利益を得ることができませんが、投資をしていないのだからやむをえないという考えが基本的になってしまいます。

逆にヨーロッパなどの「社会的責任社会」「連帯社会」では、教育の機会が親の経済的地位で左右されるのではなく、社会の構成メンバーの経済的能力を高めるためにみんなで支え合う公的な教育を提供する必要があるとベースで考えています。「社会的責任社会」「連帯社会」では、教育への投資は、個人の「自己責任」ではなく、「社会の責任」ですから、教育の成果は、個人の利益だけに還元されるべきものではなく、社会に還元されるべきものとなります。ヨーロッパでは、大学まで含む教育全体が公共サービスと考えられているのです。

私は「自己責任社会」と「社会的責任社会」「連帯社会」の大きな違いが、この教育に対する考え方にあるように思えるのです。教育を提供する社会の考え方と、教育を受ける個人の考え方は、相互に強め合う関係になるのではないでしょうか。教育を自己責任にしないで社会の責任として提供する社会には、社会的な意識の高い個人が生み出され、そうした個人が構成する社会はさらに強い「社会的責任社会」「連帯社会」を生み出していき、まったく逆の流れで、教育を自己責任とする社会では、さらに強い「自己責任社会」が生み出されてしまうことになると考えられるかもしれません。
(田端博邦東京大学名誉教授談、文責=井上伸)

井上 伸雑誌『KOKKO』編集者

投稿者プロフィール

月刊誌『経済』編集部、東京大学教職員組合執行委員などをへて、現在、日本国家公務員労働組合連合会(略称=国公労連)中央執行委員(教宣部長)、労働運動総合研究所(労働総研)理事、福祉国家構想研究会事務局員、雑誌『KOKKO』(堀之内出版)編集者、国公一般ブログ「すくらむ」管理者、日本機関紙協会常任理事(SNS担当)、「わたしの仕事8時間プロジェクト」(雇用共同アクションのSNSプロジェクト)メンバー。著書に、山家悠紀夫さんとの共著『消費税増税の大ウソ――「財政破綻」論の真実』(大月書店)があります。

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