消費税増税と「分権」が究極の貧困社会もたらす=「消費税増税不可避」「中央集権より地方分権」というグローバル競争国家にとりつかれた幻想の罠|二宮厚美神戸大学名誉教授

  • 2015/10/16
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アベノミクスをどうみるか – デタラメに飛ぶ3本の毒矢|二宮厚美神戸大学名誉教授」の続きです。2013年5月にインタビューしたものですが、今でも大事な消費税増税の本質的な問題点と、橋下徹大阪市長らの「中央集権より地方分権」という「改革」がもたらす恐ろしい危険性がとてもよく分かるものになっています。5時間以上に渡ったロング・インタビューで長文ですが、ぜひ読み通してください。

アベノミクス・財政危機・道州制をどうみるか
――公務の根幹にある税・財政を福祉国家型へ
二宮 厚美 神戸大学名誉教授インタビュー

――財政赤字はなぜ生まれたのでしょうか?

財政赤字は長く続いていますが、形式的に言えば、財政の収入と支出の間に乖離が生じて、収入を上回る支出が拡大して、この結果、財政赤字が生まれるわけですね。

公共財政の「量出制入の原則」

そこで、財政支出をまず考えなければいけません。財政支出は財政の原則で、歳入より前に考えなければいけません。なぜなら、「量出制入の原則」というのが公共財政にはあるからです。「量出」とは、出る方をまず量る。「制入」とは、歳入を制御するということです。だから公共財政では、大阪の橋下徹市長が言っているような、入ってくる収入の範囲内で支出を組むという考え方、つまり一般の企業や家庭に当てはまる考え方を公共財政に適用してはいけないのです。公共機関というのは逆なんですね。なぜなら公共機関は、災害復旧や教育、防災、治安維持、司法など、収入に関わらず各種公共業務はやらなければいけないからです。これにどのくらいお金がかかるかということは、最初に「量出」で量らなければいけない。その後で、そのために必要な財源を制御するということです。

90年代の財政支出膨張は公共事業費

その原則に立って、出る方はどうだったのかと考えると、90年代は押しなべて、財政赤字すなわち財政支出が膨張する主要な要因は公共事業にありました。公共事業630兆円計画などアメリカとの約束もあり、90年代末には不況対策ということで小渕首相は自ら「世界一の借金王だ」と言ったくらい、建設国債を発行してバンバン公共事業にカネを回してきたわけです。

ただし21世紀に入ると、公共事業が削減の対象になります。構造改革というのは財界の期待を背負って、公共事業についても無駄なものは削るんだという形で進行しました。

21世紀に入ってからは社会保障費が、財政支出面で大きくなっていることは間違いありません。ただ、それがいたずらに膨張したとはいえません。社会保障制度が自然に社会保障費の膨張を呼び起こす側面と、構造改革によって格差が進行して、たとえば生活保護費が膨張するとか、年金の費用が膨張するとか、そうした失業時の生活扶助費用が膨張するという2つの側面があります。

その結果、ある意味では避け難く社会保障費は膨張してきたところがあります。ですから、社会保障の費用が財政赤字の主要な原因であったとはいえません。必要な社会保障費を削りに削っても伸びざるを得なかったという側面があるということです。

税収減が財政赤字の最も大きな原因

そうすると、何が財政赤字の原因なのでしょうか。それは税収です。日本の数十年間で最高に税収が上がったのは1990年代初頭ですが、1990年の税収と比べると、国税だけでも現在は10兆円以上も落ちています。明らかに税収そのものが一貫して伸びない構造になってしまっているのです。支出は社会保障に見られるように増大せざるを得なかったけれども、歳入が圧倒的に不足する事態になったわけです。この税収減が財政赤字の最も大きな原因です。

ですから私は、増税は不可避だと思います。増税なしに財政再建ができるかのように言うのは問題で、今は増税は必要です。なぜそう言えるかというと、歳入があまりにも少な過ぎるからです。

賃下げで税収が伸びない

問題は、なぜ税収が少なくなってしまったのかということです。これは大きく2つの要因があります。結論からいえば、まず課税ベースになる国民の所得そのものが伸びていない。所得税の課税ベースが伸びていないことが第1の原因です。なぜ伸びていないかというと、先ほどのデフレ不況の要因と同じで、先進国には共通しています。新自由主義的な拡大再生産が国内に格差と貧困社会化を呼び起こし、内需が消費不況で不振に陥っているからです。だから国内経済は一向に盛り上がらない。これをアメリカはバブルで一時的に解決しました。ギリシャや南欧はその穴埋めのために公共的な支出で内需を補完してきました。しかし日本の場合は、国内需要が盛り上がらないものだから、企業は外需依存型で儲けるという構造に走りました。世界経済を相手に現地生産でいくか、輸出でいくかということです。ただしその利益は、国内の労働者には還元されないで国内労働者の賃金は下がる一方です。だから勤労者世帯の所得は伸びないという構造が続いてしまいました。ですから全体では税収のもとになる国民所得の低下が、まさにデフレ不況そのものに直結しています。所得が伸びないから税金がなかなか上がってこないという構造になったわけです。

高度経済成長の時期はそれなりに内需も発展して、GDPも毎年伸びていました。するとそれなりに個人所得税も法人税も証券税制の収入であれ、伸びるという構造がありました。ところがデフレ不況が進行したお陰で税収が伸びなくなった。これを解決しようと思ったら、先ほどの話と同じです。デフレ不況をもたらすような新自由主義的な蓄積の構造を根本的に転換しないと、安定的に税収は見込めないということになります。だから日本の経済成長や発展構造を、従来の外需依存型成長からあらためないといけないのです。

消費税導入で税制が歪められた

2つめの税収減の要因は税制です。新自由主義的税制改革が税制そのものを空洞化して、仮に経済が成長しても、税収が上がらない構造をつくってしまった。これをいつから進めてきたかというと、消費税導入時です。消費税を基幹税として位置づけて、他の税金を基幹税から降ろしてしまうという流れが1989年の消費税導入から始まったのです。消費税の導入をきっかけにして、税制体系が歪められてしまったのです。

グローバル化時代には今までと違う税金の仕組みにしないといけないというのが税制そのものを歪めてきた理屈の出発点です。つまり、グローバル化が進行すると企業や富裕層からは税金が取れない。なぜなら富裕層の所得や企業の所得は、いわゆる「キャピタルフライト」と言いますが、逃げ足が速いからです。世界中、安い税金の地域を求め、高い税金の地域を嫌って逃げ回ってしまう。グローバル化時代には、税金から逃げるのは自由勝手ということになりますから、グローバル化が進行すればするほど、企業家や資産家や投資家の所得には税金をかけるのが難しいという議論が、現在、圧倒的に支配的な税制改革の主流にあたる議論になっているのです。

グローバル化時代の消費税増税、逃げ場ない国民

グローバル化時代の税収は消費税におかざるを得なくなる。なぜなら消費税は消費する場所で税金をかけるので、日本国民がまさか消費税を嫌って海外で消費するわけにはいきません。

国内の一般の暮らしそのものは逃げることができないから、それを直撃する消費に税金をかける。これならグローバル化時代にも逃げられないから大丈夫だとなるわけです。これを課税客体の可動性や移動性といいますが、高い税金をかけたら逃げられてしまう、移動してしまう、動いてしまうという性格の強い税金は結局減税せざるを得ないという論理が主流になっています。

これが税制の歪みをつくっていく。そして、法人税が1990年代からじわじわ下げられました。そして次に下げられたのは資本所得、つまり証券などで手に入れる株式の配当。こうした利益は逃げられやすいから下げなければいけない。その代わりに消費税を上げるんだということです。

税収がまったく上がらない税制

高額所得層も、累進課税であまり高い税金をかけたら、最近のフランスで起きているように、国籍すら変えて税金が安い他国に移ってしまう可能性がある。だから累進課税はなるべくフラット化して、最高限界税率は引き下げていかなければいけない。

これをやると、格差社会化では貧困層が増えて、所得税を納めるにも納められない人達が増える一方になってしまう。富裕層の税金を安くするわけですから、企業がボロ儲けして267兆円という内部留保を溜め込んでも、ここに手をつけると逃げられてしまうということで温存する。税金を取ればたっぷり取れるところの税金を安くしてしまったわけですから、構造改革によって政治や経済が発展すればするほど、経済が多少成長しても、税収がまったく上がらないという構造になってしまった。

現在はデフレ不況が進行しているといっても経済規模そのものは今から20数年前と比べて大きくなっています。大きくなっている経済が、なぜ20年前の税収を上げられないのか。それは税制が税金を取らない仕組みに変わってしまったからです。税制改革そのものが税収の落ち込みを招いたのです。だから財政危機を打開するためには、税制を今までの税制改革とは違う方向に逆転しないといけません。逆転して増税しないと、財政赤字は解決できないということです。

内需不振によるデフレ不況を打開して、国民所得全体の課税ベースを拡大しながら、より担税力のある法人や個人からちゃんと税金が取れるような税制に変えていかないと、現在の日本の財政赤字は永遠に解決できないと思います。これは断固として1日も早くやらなければならないのですが、さしあたり、そうした財政赤字の要因を正確につかんでおかないと、事業仕分けなどで無駄な財政支出を削ったり、国家公務員の総人件費を削減すれば財政赤字を解消できるなどというデマにだまされてしまうことになります。

公共事業であれ、あえていえば軍事費であっても、多少見直したからといって財政赤字が解決できるといった、そんな生易しいものではないのです。もっと構造的に、税制そのものを歪めてしまったこれまでの政治の責任を問う形で、やはり消費税とは違う税制に戻して税収を上げなければいけない。ここに国民の目を向けていかないと、今までと同じことが繰り返されてしまいます。そういう意味では財政危機の根源をきちんとおさえておくことは非常に大切なことだと思います。

法人税が高いから海外移転するわけではない

――法人税を上げると企業が海外に逃げていくと言われる中で、税制を変えられるのでしょうか?

現在は、法人税を上げないうちに、企業の言い分に脅かされて法人税は上げられないとする方が一般的には多いと思います。ですが、企業自身が言っているように、法人税が高いから海外に逃げていくわけではありません。逆に法人税を安くしたら逃げないかといったら、逃げるんですよ企業は。つまり、企業が海外移転するかどうかは、経済産業省の調査などが明らかにしているように、立地先の需要が最大の理由なのです。たとえば中国に工場を移す企業は、電気製品であれ衣服であれ、立地先で売れるから出かけて行くわけで、日本の法人税が高いから海外に逃げていくということには実際にはなっていないのです。

それに、税金をかけた結果、実際に逃げる企業が仮にあるとします。しかし、その企業の所得は外国で生み出されるわけです。国内で生み出されるわけではない。ですから外国で税金を払わざるを得ないだけの話です。それでも、本国の本社に環流してきた所得に対しては、高い税率をかけられる。だから、まずは法人税を引き上げたらいいのです。

世界各地を動き回る無国籍企業はあり得ない

これは、ユーロ圏とは若干違います。EUでは労働条件や各種規制がほとんど同一国内市場のようになっているので、ここで動く場合と日本の場合とでは性格が異なる。日本は、たとえばトヨタは昔、数十年もたてば本社を中国に移すという話をしていましたが、それは絶対にありません。なぜかというと、多国籍企業化すればするほど、母国の力が絶対に必要になるからです。たとえばテロにあうとか、財産没収とか、外国で不当な措置を受けた時に、その多国籍企業の支店や出先を守ってくれるのは一体誰でしょうか?

アルジェリアで人質事件が起きましたが、あれは日本企業でなければ、日本政府は何の責任も負いません。社員が外国人であろうと日本人であろうと、それが日本企業の社員であるから、安全が問題にされるわけです。それは、他ならない日本国籍で日本にちゃんと本籍がある企業だからです。
もし文字通り大企業が無国籍企業になって、世界各地を自由に動き回ることになると、誰もそういう企業は守ってくれません。ですから無国籍企業はあり得ないのです。国民国家を単位として世界が成り立っているのは、やはり本国から逃げ出してしまうことができないからです。そのことをおさえた上で、企業の所得に税金をかけなければいけない。それでたとえばトヨタが逃げると言うのなら、トヨタ車の不買運動をやってでも批判すべきです。

欧州では労働組合が勝手な企業移転を許さない

このことになぜ日本人は気がつかないかというと、日本の大企業の労働組合が弱いからです。たとえばフランスやベルギーでは、企業が工場を移すと言ったら労働組合がまず反対して、経営に介入していく。自分達が働いている工場を移転するという時に、働いている労働者達が移転させないという運動をやる。市民もそれはよく分かりますからストライキなども応援します。だから政府も介入するわけです。

そういうことが日本の場合はないばかりか、むしろ連合系の労働組合は企業にやりたい放題やらせているでしょう。だから、企業経営の方向、投資の方向について日本人の考え方がヨーロッパと違うのは、まず企業が逃げるという時に内部の労働組合がしっかりと経営に介入するかどうかというところで大きく違うわけです。これはドイツでもフランスでも、労働組合運動がある程度強いところは、これでがんばっています。それが日本の労働組合にはないから、一般の国民が脅かされてだまされてしまう。ですからこの問題は日本の労働運動の課題でもあるのです。

財政危機をめぐる現代日本の3つの潮流

――この財政危機についての対抗軸をどう考えればいいでしょうか?

これからの構造改革やアベノミクスの3本の矢とも関わって、つかんでおいてもらいたいのは「財政危機をめぐる現代日本の3つの潮流」(▼表参照)です。

 

消費税の問題と関わって現在の構造改革の行方を考える場合、その引き金になっているのはグローバル化を起点にした税金問題なのです。安倍政権やかつての民主党政権、日本維新の会やみんなの党など、いわゆる新自由主義に属する構造改革派は、消費税を基幹税にします。従来の基幹税は所得税と資産税ですが、まず所得に目をつけて税金をかけると、憲法にもとづいて応能負担原則ですから、累進課税で取ることになります。

法人課税についても、法人所得については株主から配当に税金をかけて税収を上げると同時に、法人税も、企業は日本社会全体から恩恵を受けているわけですから税金を取る。そして所得に税金をかけても、所得の格差は残って、それが積もっていくと、今度は不動産や金融資産など資産の格差になるでしょう。ですから高所得の人は、税金を払ってもなお残る所得を貯め込んでいき、資産の中に所得が蓄積されていきます。これを資産課税、固定資産税や金融資産課税で取る。こうした応能負担原則によるのが従来の基幹税です。所得税と資産税を中心にした税制が公平な税制であり、民主主義的税制の伝統的な原則であったわけです。

消費税を基幹税とする新自由主義VS福祉国家型財政

しかし消費税を導入してから、あえて消費税を基幹税にした。なぜかといえば、先ほど話したように、グローバル化していくと金融資産に税金をかけるわけにいかない、高額所得層に税金をかけるわけにいかない、法人所得に税金をかけるわけにいかない、だから消費税を基幹税にするのだというわけです。これが現在の新自由主義的な財政や構造改革の出発点なのです。

この流れは何を呼び起こすでしょうか。いわゆる所得税を典型とした応能負担型の税収で財政構造をつくり上げていくと、財政所得は所得の再分配という効果を呼び起こします。つまり、豊かな人や大企業から税金を吸い上げて、社会保障やたとえば交付税、教育などで公平に財政を支出すると、豊かな所得から低所得層にお金が流れることになります。だから「応能負担型」の所得税・資産課税にもとづいて財政支出を組むと、上から下へ所得が再分配される「垂直的所得再分配」になります。これが福祉国家型財政になっていくわけです。

消費税が中心になれば「水平的所得再分配」
横流し型・国民総痛み分け型になる

ところが、消費税から税金を集めてバラまくと、大衆から税金を集めてバラまくことになるので、所得の再分配は水平型になるのです。右から取り上げて左に回すとか、大衆全体から巻き上げてもう一度大衆に返すという形です。ですから所得再分配の構造は、消費税が中心になれば「水平的所得再分配」になる。横流し型、国民総痛み分け型になってしまいます。

国家公務員の仕事も再編成される

これが進むと、社会保障制度の再編成になっていくのです。もう少し強くいうと、国家公務員のみなさんの仕事の再編成に関わっていくわけです。なぜなら、所得税や資産税で「応能負担型」の税金を取るには、逃げられない地域を単位にして取るしかないでしょう。

だから、もし自治体を単位にしてしまうと、実際には累進課税はかけられなくなります。なぜなら、たとえば豊かな人がある自治体に住んだ場合、ここでものすごく住民税が高くなったら、すぐに住民票を移すでしょう。一国内では、法人税の例より更に移動しやすいのです。ですから「応能負担型」の税金を自治体で採用するのは極めて困難になるので自治体の財源は「応益負担型」にならざるを得ません。「応能負担型」の財政は、中央政府つまり国民国家レベルになるのです。伝統的には、所得税や法人税で累進度の高いものについては、中央政府が集めることになります。これが現在は、「グローバル社会のもとで国すら移動してしまうから自治体と同じように税金が取れなくなる」というのが今の議論なわけです。

国家行政がやっているのは垂直型の所得再分配

しかし日本でもヨーロッパでも、それでもまだ中央政府が累進課税をやれる。比例税や応益課税、固定資産税のようなものは動かないので、動かないものに税金をかけるのは自治体がやっても大丈夫ということになります。法人税についても、ある自治体で法人税をものすごく引き上げたら、法人はすぐに場所を移すでしょう。

でも、一国の単位だったら、そう簡単には逃げられませんね。そこで国の行政は、「応能負担型」の税収にもとづくから、国家財政では所得の「垂直的再分配」になるのです。つまり全体としては、儲ける企業や豊かな人から税金を集めて全国的にバラまくことになります。たとえば東京からお金を吸い上げて全国行政に回すと、発展繁栄する地域と衰退する地域の格差を埋めることになります。

だから、垂直型の所得再分配が地域の間でも起きるのです。高い所得の地域から低い所得の地域へお金が回る。個人間でも起きる。産業でも起きます。自動車や電機でものすごく儲けている産業から税金を吸い上げて、農業など弱い所に補助金を出すことになると、強い産業と弱い産業の間に所得再分配が起きることになります。つまり国家行政がやっているのは、多かれ少なかれ、垂直型の所得再分配なのです。

地方分権の狙いは国の「応能負担型」の行政を自治体に「応益負担型」で押しつけること

自治体は、住民税でも均等割型の比例制です。だから累進課税で取られない。均一の税率なので、所得再分配といっても水平型になります。住民全体が負担して、住民全体、地域全体が利益を受ける。そうした国と地方の役割の違いが出てきます。これが実は、分権の動きを加速していくのです。つまり中央政府の役割、国家行政の役割を縮小して自治体に任せると、地元負担で何でもやらせられることになる。大きくいうと、なぜグローバル化時代に地方分権化で何から何まで自治体に押しつけるかというと、国が「応能負担型」の税収でやっていた仕事を、自治体に「応益負担型」でやらせることができるからです。

社会保障も、たとえば生活保護などは典型です。豊かな人達のお金を吸い上げて無所得・低所得層に分配するわけですから、典型的な「垂直型所得再分配」です。これは生存権がかかっていますから、全国の統一した行政がやらないとダメなのです。どれくらい地元が負担するかとか、負担能力はどうかなどと考えて生活保護行政をやることはできませんから、自治体任せにはできないわけです。「応能負担型」できちんと税金を集めて、低所得層や衰退する地域にとって利益になるような行政をやるというのは、国家行政だからこそできるのです。しかし、これを今度は「応益負担型」に切り替えようと思うと、国はなるべく社会保障の責任を持たず、どんどん自治体に任せるようになります。社会保障は圧縮して、社会保障も地方分権化していく。そのついでに、あらゆる面で国の行政を地方分権化していく。地方分権化する時の福祉関係の行政は住民密着型だから、基礎自治体に任せる。

しかし、現在の国の行政の公共事業や環境行政、地方出先機関などは、東日本大震災の復旧・復興の際に活躍したように、所得再分配の典型的な行政なのです。これを道州にゆだねてしまうと、道州を単位に地元単位でやらざるを得なくなるわけです。

消費税の基幹税化から地方分権化・道州制へ

――道州制という考え方はなぜ出てくるのでしょうか?

民主党の地域主権改革で、主に保育や教育、医療、介護などの社会サービスは、市町村を中心とした基礎自治体に任せて、地元の責任と負担と決定でやってくださいという方向性を打ち出しました。その代わり、国は関与しませんという流れが進められてきたわけです。その上でさらに、今まで国がやっていた震災対応や防災に見られる明らかに垂直型再分配の効果を持っている社会資本の行政をも、国は手放したい。だからその受け皿として、都道府県では狭過ぎるから、さしあたりは広域連合を発展させて道州制に任せてしまえば、国は文字通り、軍事や外交機能に特化できます。

消費税の基幹税化から所得再分配構造が転換して、社会保障の地方分権化と縮小が始まり、今度は産業基盤などの開発行政そのものを、基幹税であった所得税や法人税から外して地方に任せる。そういう流れになってきました。これが新自由主義の現在の主流の考え方です。これは第1次の安倍政権もそうだし、現在もそれが基調です。

多くの人が惑わされる「ポスト福祉国家派」の合流

多くの人がそこで惑わされるのは、「ポスト福祉国家派」と私は名付けていますが、その流れがここに合流する点です。そのきっかけは、グローバル化時代には所得税や法人税の徴収が難しいという論理を出発点にしたことです。これが落とし穴なのです。

具体的に名前をあげますと、民主党時代のブレーンであった神野直彦さんや宮本太郎さんが、「ポスト福祉国家派」の分権化推進論者です。彼らは新自由主義者よりよほど良心派なのですが、結果的に新自由主義者に迎合していく。なぜ迎合するかというと、出発点が消費税を中心にした税金にするしかないという消費税の基幹税化の罠にはまっているからです。

新自由主義者の主張は法人税廃止論

新自由主義者の主張は、法人税廃止論です。なぜなら、企業は株主から構成されているので、企業の利益は基本的に配当で株主に行くはずだから、企業から税金を取ってしまうと、株主の配当に税金をかけて二重課税になるというのが、経団連その他の現在の新自由主義者の典型的な議論です。ですから法人税の減税論者は、突き詰めていくと法人税廃止論になるのです。個人に企業の利益が分配された時点で、個人の所得税で税金をかければいいじゃないかというわけです。

この時、神野直彦さんは個人所得税をかける時には累進課税を残すと言っていますが、新自由主義派は累進課税を極力嫌う。そんなことをしたら豊かな人が逃げてしまうじゃないかと。だからフラット化して、20~30%の同一税率で、全ての税率を一本化するという話になります。

しかしその前に、新自由主義の新たな税制改革論では、所得を勤労課税と金融所得課税の2つに分けて、勤労者は逃げられないから累進税率、金融所得課税は逃げられるから、非常に低い10%といった低率の税金でやろうというのが、今進められようとしている「金融所得一体課税」です。

つまり、法人税を引き下げてゼロにした後で、個人所得税は金融所得と勤労所得の2つに分けて、金融所得はできるだけ安い税金、勤労所得は累進税で残してもいいということです。こうして、だんだん消費税が基幹税として中心にすわっていく、新自由主義に合流していくわけです。

消費税基幹税化に組み込まれると最後は道州制に

神野直彦さんは必ずしもそこまでは言っていなくて、消費税が基幹税になっても、所得税も法人税も残しましょうというスタンスで参画していて、妥協的条件を付けています。ただし、消費税基幹税化に組み込まれてしまっているから、垂直的所得再分配はあきらめているのです。すると「応益負担型」で自分達が負担して見返りにサービスをもらうという行政に変えていかないといけない。だから水平的所得再分配はやむを得ない。すると、消費税がこれにあたります。大衆が払う税金で社会保障をやったら、大衆の負担によって大衆の生活保障が成されることになるから、富める者から貧しい者にお金が流れる仕組みとは違ってきますね。それで、所得再分配の水平化には賛成するんです。そうすると分権化にもっていかれる。何から何まで分権化しようという流れに一端入り込んでしまうと、もう逃れらずに最後は道州制まで行ってしまうのですね。

ただしこの人達は、たとえ消費税を上げても、消費税で多少とも社会保障は豊かにしていかなければいけない、機能を強化していかなければいけないという良心を持っています。新自由主義者は「社会保障などは切れ」ということになってしまいますが、ここは違うのです。

社会保障改革国民会議は、この両派が合同してテーブルに着いている。民主党時代には若干なりとも「ポスト福祉国家派」が発言力を持っていたのですが、今の安倍政権のもとでは完全に逆転です。8月に答申が出ますが、消費税を上げても社会保障は緊縮、社会保障には回さないことになるに違いありません。今までは、消費税は上げるから社会保障をそれで圧縮することまではやらない、多少とも社会保障の機能を強化しますという論が残っていました。今までは併存していたんです。それが、次の参議院選挙を安倍政権が乗り切れば、この「新自由主義派」の社会保障改革になって、先ほどの財政悪化が進行するとますます社会保障にツケが回されるという話につながっていく。大きな流れの中で、2つの潮流は、こういう関係になるのです。

「応能負担原則」を崩さなければ国家行政によるナショナルミニマムは守れる

それは戦後の憲法の原則に照らしてもおかしいのであって、やはり消費税を基幹税化するのは許してはいけません。なぜなら、税制の大原則において「応能負担原則」を崩してはいけないし、この「応能負担原則」を崩さないということは、国家行政によるナショナルミニマム保障を守ることになるからです。「応能負担型税制」によって上げた歳入で、社会保障にしても教育にしても、誰にも平等に最低限の行政水準を保障していくことが大切です。

これは国家がやると垂直的所得再分配になるのですが、地域がやると、その地域で豊かな人にだけ特別な税金をかけることなどできませんから、結果的には分権化されると地域を単位にした受益者負担の形でやらざるを得なくなります。しかし、国家行政が担っている限りはそうはならず、垂直型でかつナショナルミニマム保障を守れるわけです。

ですから、▲表にある「新福祉国家派」の「分権化」の欄に付けている「△」は、現在では「×」ですね。分権化は今の状況ではやらない方がいい。「△」でなかば支持するというのは、住民自治がいろいろな分野で反映されにくいという構造が残っていますから、すべての分権化に反対というわけではないからです。しかし現在の流れからすると、「新自由主義派」と「ポスト福祉国家派」がどんどん受益者負担型の分権化に向かって進んでいる以上、これ以外の分権化というのは考えられません。分権化に足を取られてしまうと、結局、垂直的所得再分配を担う国家行政のナショナルミニマム保障から外れてしまうことになってしまいます。ですから、今の時点では「×」と言った方がいいと思います。

分権化は税制の考え方と結びついている

この構図を頭に置いてもらって、国の出先機関の地方への移管や道州制をにらんだ分権化がどういう性格を持っているかを考えれば、国のナショナルミニマム保障責任の放棄に対する対抗軸を持つことができると思います。地域が自分達の負担で防災から産業基盤整備から生活基盤整備までやらなければいけないということになったり、道州になってしまうと、完全にひとつの独立したそれぞれの地方政府になってしまうので、国に頼るということはあり得なくなります。

道州制になったら道州の中のミニマムしかないわけです。そしてそれは道州ごとに違うことになります。そうなったら、戦後憲法のもとでの全国的な公平や「応能負担原則」に基づく行政はもはや保障されなくなります。そこにいま自民党安倍政権は足を踏み入れようとしている。そういう理解を、国公労連のみなさんは大きな構図でつかんでおく必要があると思っています。

分権化という時に一番ポイントになるのは、それが税制の考え方と結びついているので、垂直型所得再分配に基づくナショナルミニマム保障が、どの分野であろうと分権化のもとでは大きく後退してしまうという点です。この点をおさえておくことが最も重要です。新自由主義であれポスト福祉国家であれ、分権化を唱える人達の盲点はここにあるのです。垂直型所得再分配を放棄したり、ナショナルミニマム保障を軽視してしまうのです。そこをしっかり見ておかなければいけません。

集権だけの競争国家にとりつかれている

――「ポスト福祉国家派」のような考えが広がるのはなぜでしょうか。

今なぜ流行るのかというと、競争国家という考えにとりつかれることが広がっているからだと思っています。

地域も競争、個人も競争、国家も法人税を下げて日本企業の国際競争力をつけなければいけない。各地域は企業を誘致するために切磋琢磨して互いに競争しなければいけない。大阪都をつくるというのも、大阪の国際競争力を強めるために大阪府と大阪市が合体して競争力をつけなければいけないという競争国家の論理です。

そして、それではまだ足りないから、関西州をつくって地域の競争力を高めようというわけで、そうするともう分権どころではなくてあるのは集権だけです。

カネも権限もある一定の競争力を持つところへ集中する。これに組み込まれていきます。そうすると、みんなが「もう仕方がない」とあきらめてしまって、逆進的な税制であっても仕方ないというところにいってしまうわけですね。

道州制は国の膨大な借金を地域に押しつける

――地方分権・道州制の流れでは国の責任が放棄され行政サービスが低下すると訴えても一般の方にはなかなか理解されません。そこで、道州制が導入されると、建設国債など国の膨大な借金も地域におしつけられると話すと危機感を持たれます。この点はどうでしょうか。

言われる通りです。道州制に移行すれば、建設国債の発行主体は道州です。今は国がやっているから、国が責任を持って農村部の公共事業についても全国的な所得再分配になるのですが、道州単位になれば借金も引き継ぎます。地元負担で何から何までやるとなると、交付税ではなく、せいぜい交付金程度を国がしばらくの間、各道州に出す程度です。自民党案であれ財界案であれ、道州制の将来像は、約10年後には完全に自分の足で立って自己決定、自己負担、自己責任で道州単位でやらなければいけない。

今までの民主党の地域主権改革と違うのは、民主党は基礎自治体を出発点に置いて、ここで主に住民向けサービスを切り捨てて自分達の負担と決定と責任でやらせるというのが先行したわけですが、自民党は財界と同じで、基礎自治体というよりは道州から出発しています。道州をつくって国の出先を集め、市町村の権限や財源を集中して、新しい多国籍企業支援型の開発行政をやる。ただしこれは国に頼ってやるわけではなく、都道府県を超えた道州をつくらないとダメだという、ここが発想の出発点になっているのです。

しかし、これらを合体させると結局最後は同じなんです。市町村が住民向けサービスについては責任を持ちなさい、足りないなら補完性の原理で道州がお手伝いしますよ、道州でも足りなければ最後は多少とも国が出しますよ、という構図です。ただし社会資本関連行政になってくると、最初から市町村ではなく道州が完全な政府ですから、ここで自己完結的に借金も財源調達も仕事もやるという、若干の違いはあります。しかし分権化論というのは最後は同じような構図に収まってしまう。入り方が違うだけです。結局、どこを入り口にして道州制を導き出すのかとう点で、いきなり道州制に入って後から市町村を位置づけるのが、経団連と自民党です。民主党は、教育などを市町村に任せると都道府県が空洞化してくるので、それを後から道州制に変えるというコースです。

集権型から分権型の道州制構想への転換

高度経済成長から80年代半ばまでの道州制構想は、上から開発行政を進めるという伝統的なタイプでした。たとえば戦後の道州制構想で、関経連をはじめとして関西の財界がいち早く言い始めたことは、近畿の水瓶といわれる琵琶湖の水資源をどう開発するか? 工業用水その他でどう関西財界が利用するか? ということでした。そのためには、滋賀県に琵琶湖の水利権を渡していたのでは不十分ということで、関西州という大枠で琵琶湖の水利権を上に吸い上げて、これを動員する形で開発を進めていこうという話だったのです。

上から資源や資金を動員しながら開発していくという、いわゆる集権型の道州制構想がつくられました。これは露骨な輸出第一主義というか、企業の成長に地域を従属させ利用するという集権型の道州制で、これが90年代までは支配的だったのです。

ところが最近の道州制というのは、形式としては分権化という路線できています。集権型から分権型に転換するわけですね。その引き金になったのは、開発を進めるにしても福祉を進めるにしても、グローバル化時代には国家が所得税や金融資産課税を応能負担にするのは限界なんだということです。そして結局、グローバル化時代には分権化するしかないという論理が席巻するわけです。

多国籍企業を支援する分権国家構想

そこで、理論的に分ければ2つの系譜が出てきます。1つは、どちらかといえば財界や自民党が主張してきた分権国家構想です。これはグローバルな競争国家を創出するというもので、グローバル化時代には企業も個人も産業も地域も国家も、グローバル競争に打ち勝っていかなければいけないという発想です。

財界の場合でいえば、その時に主体になる多国籍企業を支援するような広域経済圏を、まずつくらなければいけない。広域経済圏をつくるに当たって中心になるのは、広域経済圏の州都だ。ここに資金も権限も集めなければいけない。そういう部分では集権なんです。圏域の中の市町村を単位にした資源や権限、財源は一端都道府県を越えて州都に集中するという話になる。その上で、集中と選択になってくるわけです。

九州なら九州を単位にして、研究機能についても各県ごとに大学の機能を特化させていき、九州大学のカレッジのひとつとして、たとえば教育学部は熊本に集中させるという形にしていくというのです。そのようにして広域経済圏の中で社会資本を選択して集中するということを、州都から指示して全体の国づくりを再編成していこうというわけです。

国の出先機関は必要ない「競争国家型道州制構想」

その時に、もはや国は必要ないわけだから、国の出先機関はすべて道州に移管してしまえ、福祉行政は道州の中の基礎自治体に移管してしまえということになります。基礎自治体も市町村では不十分だから、合併して最低でも10万~30万人の都市にまとめて、そこに福祉をもっぱら任せてしまう。開発行政は道州を単位にして、権限を分権化して責任を取らせていく。これを拠点にして多国籍企業は世界に羽ばたくというイメージです。これは、「競争国家型道州制構想」で、財界は明らかにこの考えです。

経団連の道州制構想では、「究極の構造改革は道州制だ」と言っています。その理由は、日本全体を、個人から企業から地域から国家まで、世界の競争に勝てるものにしていくために再編成するんだという流れにするためです。これは昔の集権型開発行政の一部を継承しています。だからこの点でいうと、分権化モデルではあるけども、域内の権限や財源は集権化するという、過去の道州制構想とまったく切れているわけではなく、一部は継承されているのです。

完全自己完結型の市民主義的分権論

もうひとつは、基礎自治体から出発して分権化を進めていこうという構想で、どちらかというと民主党が唱えた地域主権改革構想がこれに近いですね。民主党は当初から道州制を前面に出したのではなく、どちらかといえば都道府県の権限や財源、国の権限も市町村を中心にして委譲し、ここに完全自治体のようなものをつくる。しかしそれを想定した瞬間に、ナショナルミニマムは後退してもいいというタイプの市民社会論的分権論でした。

この代表は西尾勝さんです。彼はある意味では、アメリカの西部劇に見られるように、完全に独立していたときの州も連邦もない時代のタウンシップを想定しています。ここでは完全に自分達が裁判もやるし税金も集めるし、住民集会で立法にも住民が参加する直接民主主義が貫かれています。これを自治体の理想だと考える人達は、いわゆる市民主義的分権論者です。だから完全自己完結型の、国も相手にしない、外部の自治体も相手にしないという独立した形をつくり、その代わり市民が全部責任を持ち負担もする地域主権をイメージします。これは、民主主義の小学校といわれていた頃の地方自治モデルです。これを原点に置くタイプの人達は、現代日本であれば市町村を単位にして考えざるを得ない。

だけど、現在は古き良きアメリカとは違いますから、現在、住民に身近な行政を一切合切やろうとしたら、当然一定の規模が必要になる。これを束ねるためには市町村合併もやむを得ないということで、民主党の地域主権改革は、合併してコンパクトシティをつくって、ここに権限と財源をゆだねようとした。そうすれば国や都道府県から独立した自主的な自治体ができあがる。市民主義者というのは、大雑把にいえば、そういう自治体が自分達のモデルです。

財界版の競争国家型の道州制に合流してしまう「ポスト福祉国家派」

これを原点にすえると、いわゆる補完性の原理で、まずは身近な行政は町や村というコミュニティを単位にしてやり、それを補完する広域行政がバックアップして、それでもなおできない課題を国がバックアップしてやりましょうということになります。この論理だったら、すぐに道州制は出てきません。市町村を基本にして、都道府県を残して、国があるという自治体の二層性、行政機関からすれば三層性というイメージになります。

しかし、福祉行政はそれでいいのですが、現代日本でそれを追求していくと、都道府県単位では経済圏そのものが違ってきていますから、問題の社会資本の整備や産業基盤の整備、また広域行政の課題は、結局、道州に行かざるを得なくなる。だから後から付け足すようにして道州が出てくるわけです。

ただ、この道州制はどちらかといえば連邦制型です。つまり上から道州をつくるのではなく、下から市町村を単位にして自治体をつくり、それを補完する州のような規模の広域行政を持たなければいけない。ここはもちろん役割分担で、身近な行政は市町村がやり、道州はそれを補完して市町村ではやれない課題をやっていくことになります。そして道州は市町村が集まった州ですから、アメリカやドイツのように国から独立した一定の財源や権限を持ち合わせていなければならない。だから連邦制のイメージになるんですね。それを最後に補完するのが国家になりますが、国家は道州や基礎自治体がやる仕事はやりません。ですから、残されているのは外交、国防、司法、通貨管理、そして権力機能しかない。そして結果的には、財界版の競争国家型の道州制と同じものに近づいてしまうという構図になります。

あえていえば、新自由主義的な競争国家を追求するタイプの人間は、2番目の競争国家型道州制を先行させるという、自民党や財界の流れにほとんど同じことになります。「ポスト福祉国家派」は、市民自治や基礎自治体の完全自治体をモデルにするから連邦制型になる。ただし両者は単純に割り切れるものではなく、それぞれの潮流は結局最後は同じようなところに行ってしまうわけです。

たとえば、PHP総合研究所前社長でみんなの党の江口克彦参議院議員などは、かつての道州制ビジョン懇談会で中身としてはどちらも主張しています。しかしいずれにせよ、統治機構を再編成しようというタイプの人は、どちらかというと連邦制、つまり、統治の仕組みや行財政の仕組みをどうすればいいかと考える人達は連邦制型です。財界のように露骨に「大企業の競争力をいかに強めるか」という発想からいく人達は、上から下への分権型。そういう流れになっています。

「集権か分権か」というニセの対立構図から「霞が関官僚機構か国家公務員労働者か」の真の対立へ

福祉国家を追求するタイプの人間は、消費税を基幹税化するという道には入り込みません。私たちは福祉国家型地方自治と同時に、集権化・分権化という発想ではなく、地方であれ国家であれ公務労働の裁量権や公務労働そのものが持ち合わせている地域密着型の裁量権を高めることが重要であると考えます。また、「集権か分権か」という構図ではない点に注意する必要があります。「集権か分権か」ではなく、国の行政であれば「霞が関官僚機構か国家公務員労働者か」という構図なのです。国家公務員労働者であれ、地方公務員労働者であれ、対抗しているのは官僚機構なのであって「集権か分権か」という構図ではないのです。もし「集権か分権か」という構図に入り込んでしまうと、何でもかんでも分権化して地方がやりさえすれば上手くいく、というイメージになるでしょう。

しかし、地方に任せたからといって、地方自治体は地方自治体で官僚機構があるわけです。その官僚機構と公務労働者が対決して、公務労働者の側がきちんとした仕事をやれるような体制にする必要があるのです。国家公務員労働者であろうと地域性を無視して働いているわけではありません。一般に、国家公務員がやったら全国画一的で、霞が関の規格のもとで仕事が成されるというイメージで見られがちですが、私はそれは違うと思います。国家公務員労働者も地方に分散して現場を持っている。現場を持っている国家公務員労働者は、どこの公務員であろうと地域に照らして仕事をするのです。だから地域に密着し、地域の事情を反映しながら適切な仕事をするということは地方公務員労働者も国家公務員労働者も関係ないのであって、公務労働として仕事ができるように再編成するということが課題です。

地方公務員労働者や国家公務員労働者を支えているナショナルミニマムを基準にした上で、弾力的で柔軟に地域に即して仕事をするということが、抽象的ですが、私たちが選択すべき道ではないでしょうか。

道州制は住民自治の形骸化をもたらす

現在の道州制の問題点をまとめると、道州制構想であれ分権化構想であれ、ナショナルミニマム保障という視点を徹底して軽視し、現在の日本で取り払ってしまったら、地域や自治体の行政は競争せざるを得なくなってしまうので、文字通り、生存権や労働権に基づく国づくりや生活保障にはなりません。

2つめに、ナショナルミニマム保障を取っ払ってしまうと、地域間の発展が不均等になってしまいます。地域が全国性を失ってバラバラになり、逆に競争せざるを得なくなります。地域と地域が競争し始めると、いよいよ減税競争や行政水準の競争が起きて、結果的には住民の暮らしそのものが衰退することになりはしないかという懸念があります。

3つめの問題点は、道州制に限って言っても、本来の自治体の原点である住民自治そのものがますます形骸化するということです。たとえば九州を単位にして、市町村に散らばっている住民参加型の行政ができるかどうかを考えればわかります。できるはずがないのです。まして、道州の中では州都に権限や財源が集中するわけですから、住民自治というのは形骸化して、言葉本来の分権化という意味を失ってしまうのです。ですから、地方自治という視点から見ても、やはり現在の道州制には何があっても賛成できません。

道州制の狙いは国の出先機関廃止と国家公務員削減

さらに付け加えると、私は道州制は実現できないと思っています。安倍政権の中の道州制推進論者さえも、道州制を実現できる見通しは持っていないと思います。道州制推進論者が実現できる見通しを持っていない道州制をなぜ掲げているかというと、道州制に向かって実際に進められることそのものが欲しいからです。

これがまさに、国の出先機関の地方移譲です。これは道州制が実現できなくても、今にも関西広域連合に移せる。道州制をイメージに置いてやればできないことはないからです。そして、結果的には道州制の実現に至らなくても、ナショナルミニマム保障は徐々に後退し、国家公務員も減らすことが可能になるわけです。いろいろな行政で国の責任は徐々に免除されて、自治体の側が何から何まで財源も含めて責任を負わなければいけなくなる。そういう流れにもっていけるのです。これが実は狙いなわけです。道州制構想というのは、それを掲げて一歩一歩あゆみを進めた時に、「国の出先機関は廃止できるぞ」「廃止できないまでも公務員は減らせるぞ」という流れにもっていけることが真の狙いだと私は思います。

ではその後、災害が起きた場合はどうなるのかといったら、どこも責任を取れないということになってしまう。それはすでに市町村の福祉行政で起きています。保育などでも、権限を渡した結果、保育所の床面積はどんどん狭められ、保育園の基準も下がって、実際には自治体の条例制定権にゆだねて権限を任せることになっています。ただ、今の仕組みのもとでは完全に移行することはできませんが、現実に進行していることを見ると、国の保育に対する責任は徐々に少なくなってきて、地域を単位にしてやり繰りせざるを得ないことになっています。そして財政が苦しければ我慢しなければいけなくなっている。実はこれが狙いであって、道州制そのものにだけ目を奪われていてはいけません。

道州制の名のもとで進められている一つひとつの行政サービスの後退に対して、全体のビジョンの中でとらえながら、「だから問題なんだ」というふうに明らかにしていかないと、現在の新自由主義構造改革のたくらみに持っていかれてしまうでしょう。この点をよく見ておくことが大事だと思います。

応能負担型税制の再建・強化が新しい福祉国家の土台

――新しい福祉国家構想研究会の対抗軸についてお聞かせください。

一番難問なのは、応能負担型税制をきちんと再建して、強化することです。その時に当然、「グローバル化ではできないんだ」という反発が来ますよね。それに対して、やはり累進課税で法人税についてもきちんと負担させ、配当にも優遇措置を取るのではなく総合所得累進課税の公平な税制で税金を吸い上げていくことが大事になります。

これを基本にして、あくまで地域や産業間の垂直型所得再分配の構造を守って、それで福祉国家型の戦後の原型を現在の新段階で高めていくことが重要です。公共機関がやる公共サービスは、公共財を供給するということです。これは、市場で放っておいたら供給できないような資源を、公共機関が責任をもって配分するということです。ですから所得再分配の過程で、環境保全や防災、教育や社会保障サービス、放っておいたら永遠に国民の必要性に適わない公共サービスについて、きちんと所得再分配を通じて提供していく必要があります。これを確立することができると、経済が福祉国家型内需を基本にして安定することになり、それほど景気変動で振れません。つまり福祉国家というのは、基本的には国民の暮らしに結びついたサービスを安定的に供給することで、内需は安定するのです。福祉国家を確立していけば、日本経済そのものが安定的に発展していくので、新しい次の税収を呼び込むことになって、当座は財政が苦しい状況から出発したとしても、福祉国家型の税制や行財政構造のもとでは、アベノミクスで解決できないようなデフレ不況も中長期的に解決できるという見通しで青写真を描くことが当面の私たちの課題です。

当面は、アベノミクスや道州制の問題点をしっかり分析して、これではダメだという問題点を明らかにすることで、違う側面を逆に明らかにし、追求していくことが私たちの作業です。これを福祉の各分野や財政構造および税制で解決しようということです。

消費税増税と一体で社会保障が改悪されていく

――税と社会保障の一体改革などの動きについてはどう考えればいいでしょうか。

今までは消費税を上げて、多少とも社会保障にお金を回す、つまり社会保障のための消費税増税なんだというのが触れ込みでした。ところが、消費税が基幹税として位置づけられてくると、消費税を増税するのであれば、その前に社会保障自ら身を切らなければいけない、社会保障費を削減しなければいけないという、とんでもない話にひっくり返りつつあります。

つまり社会保障を良くするのではなく、消費税で国民に痛みを突きつけるのであれば、社会保障の方がまず痛まなければいけないという論理に変わりつつある。

これは、消費税が中心になった時に「社会保障のためなら消費税を少々上げるのはやむを得ない」という風潮があって、政府はこれを利用していたわけですが、実際には、一体改革というのは消費税を上げると同時に社会保障の限定化・効率化も合わせて進めるのです。それは、消費税増税と一体で社会保障も悪くなっていくという性格のもので、これは歳入面の改革と支出面の改革がどう進むかということを見事に示しているわけです。

「応能負担」と「垂直的所得再分配」は切り離せない

税収を獲得する時の財源確保の論理と、それを使う時の原則や論理は整合性を持たなければいけません。「応能負担型税制」だからこそ「垂直的所得再分配」となり、そして、ナショナルミニマム保障に国が責任を負わなければいけないという税金のあり方の原則と、国家行政がよって立たなければいけない原則は論理的に結びついているというこの両者の関係を、これからはしっかり考えていかないと財政構造の転換にはならないわけです。

この「応能負担型税制」と「垂直的所得再分配」の両者を切り離してしまうと、社会保障のためであれば消費税であろうと何であろうと、とにかく財源さえあればいいとなりがちです。逆に消費税をこれだけ上げられるのはかなわないから、社会保障も切り詰めなければいけないとなって、税収と支出の論理的関係を断ち切って発想するところに現在の特徴のひとつがあります。

福祉国家型財政や税制というのは、支出の時の論理と税収を上げる時の論理は整合性を持って、どちらとも憲法の原則に沿ったものでなければならないと思います。そういう意味で、福祉国家型財政の原則から見ると、これからの税と社会保障の一体改革が向かう道には反対する必要があります。昨年はまだ「消費税増税を社会保障に」という「ポスト福祉国家派」の論理がありましたが、それが今はまったくなくなってしまって、「消費税増税と一体での社会保障改悪」になりつつありますから、あらためてこの問題にも注意する必要があります。

公務員バッシングと税金に対する恨み

――公務員バッシングの問題を考える上で、税金に対する恨みがミドルクラスにも深く浸透していて、税金を払う時に自分達のために払っているのではなく「取られている」と思っている人が多いのではないでしょうか? 道州制の議論を見てもそう感じます。税金に対する恨みを少しでも良い方向に変えるためにはどうしたらいいでしょうか?

それは昔からの厄介な問題です。公共的サービスというのは、社会にとっても個人にとっても不可欠であり、個人の損得の問題ではなく、比喩的にいえば太陽のようなものなのです。太陽の光は誰にもさんさんと降り注ぐでしょう。その光をどのように利用するかは各自の自由です。その代わり、太陽の光がなかったら誰も生活できません。太陽の光があるから、日光浴に利用する人がいたり、農業に利用する人がいたりするわけです。

これと同じで、どうぞご自由に自分達の必要に応じて利用してもらったらいいですよ、というのがもともとの公共サービスです。ですから太陽のようなサービスが、天気予報であったり警察であったり、義務教育であったり、司法であったりします。ここをしっかり認識できる人達がいれば、太陽の光を維持するためには能力に応じてお金を出すのが当然じゃないか、という発想になるはずです。

公共サービスそのもののとらえ方が、日本人は一般の商店街でサービスを買っているように、負担に見合って得するべきだという市場の論理と近いものとしてとらえる傾向があるのですね。日本も昔は必ずしもそうではなく、共同体という村があれば、村全体のためには何としても河川の氾濫を防止しないといけない、被害者がいれば救済しなければいけない、という発想がありました。これは太陽の光と同じです。必要な時に利用する、誰もが利用できるというとらえ方が、共同体の時代にはある程度あったわけです。

ところがこれが崩れてしまうと、みんなが商店街でものを買って、必要なものはすべて自分の負担で買うという社会が一般化してくる。すると税金も一人ひとりの見返りのために納めているはずだという見方が出てくる。日本の場合は村ぐるみの生活がほとんど崩れてしまいましたが、たとえば東北の農村では、祭りは村あげてのイベントなのでお金を出し合って楽しみます。その時、資産家は神輿等を寄進する。そうした部分が残っているところはありますが、これが崩れてしまうと、公共サービスは誰もが必要に応じて受けたらいい、資力に応じて払ったらいい、なぜなら太陽の光のようにみんなで支えなければいけないからだという倫理観が育たないのです。

「みんなで負担する」と考えるドイツの税制

また、ある意味で日本の「税」に対する伝統的なイメージも関連します。日本では武家が稲を収奪して税とした。しかしヨーロッパでは事情が違います。ドイツの税=「ストイエル(steuer)」という言葉は、船頭が船を操る時の櫂という意味を持ちます。だから船の櫂をゆだねて乗っている人達が無事河を渡るという、指導者に対する捧げもののイメージがある。つまり、自分達の利益のために税金を払うんだとか、または奪われてしまうんだという日本の税金のイメージと、公共的リーダーに対してみんなが負担するという尊敬の意味が含まれた「ストイエル」とでは、根っこの認識が違います。

それから、英語では、タックスの前にアームズ(alms 慈善金)と呼ばれていました。神のめぐみのお金という意味です。キリスト教の国では、もともと教会に対して収穫物の10分の1を自発的に納めます。教会は神ですから、神が病人の救済をしたりする。もともとヨーロッパの病院の走りは、軍隊の野戦病院と教会の病院でした。つまり医療と貧困者の救済は教会が中心なのです。そして、その背後には万能の神がいる。

ですから、万能神のいる国では普遍的絶対的倫理観があります。これは何がなんでもやらなければいけないという、そういう価値観がありますから、税金を納めるのは当たり前のことになるわけです。

アメリカは脱税王国でもありますが、アメリカ社会は脱税に対して非常に厳しいですね。税金は、アメリカ社会であっても当然社会のために払わなければいけないという意識が強いからです。自分達の利益のために払うというよりは、働いて得た所得の一部を神に納めるのは当然だという意識です。なので税金を納める時の公共サービスのとらえ方が、神が行うような社会サービスを支えるために納めるんだという欧米的価値観、またはリーダーに船を漕いでもらうことに対して払うという価値観は、日本の公共サービスのとらえ方とかなりズレがあります。

日本は憲法のもとでも、公共的なものに対する尊敬や、自分達が公共サービスの中で生活しているんだという公共空間に対するとらえ方や見方が根付かなかった。つまり村が崩れて大衆的な個人バラバラの資本主義に突入してしまったので、公共的なものを自分達でつくったり、宗教的に創造するという歴史を経ないまま、税として収穫物を抜き取られる時代の意識だけが継承されてしまいました。ですので、税金に対するとらえ方はまるで違うのです。ですから日本社会は税に対して、昔でいう役人のイメージが公務労働の担い手なんだというふうに、社会の多数が認識している。それが長らく課題になっていたことと結びついています。

それが、ある程度公務労働者らしくなったのは、村の小学校の先生でしょう。村の小学校は明治以降、自分達がつくりました。昔の小学校は、町をあげての運動会やお祭りの場でした。自分達でお金を出し合ってつくったからです。ここは戦時であっても、学校は自分達で支えなければいけない、賃金も労働条件も保障しなければいけないという、「これが公務労働者だ」というイメージを唯一といっていいほど早く確立した。

ところが、今は全く逆になってしまっているから、そういう意味ではなくなりつつあるわけですね。震災の時はさすがに公務労働が見直されつつありましたけど、確かにここをどう考えるかは非常に難しい問題です。

多くの国民から頼りにされる公務労働者に

――公務員バッシングをはねかえしていくためには、新しい福祉国家づくりをめざす必要があると言えるでしょうか。

日本の場合は特にそうですね。ヨーロッパの場合は先ほど言ったように納税者の倫理に加えて、公務員も労働者であるという階級的な連帯感が国民の間にきちんとあるのです。ですから、ヨーロッパでは日本特有の公務員バッシングは起こりません。どこから賃金をもらっていても同じ労働者ですから公務員であろうとなかろうと関係ないのです。だから、公務員がストライキでたたかうのも当然ですし、選挙運動を展開するのも当然です。普通の労働者と何の違いがあるのか? という階級的連帯感が形成されていれば、現在の日本のような事態は進行しないのです。

しかし、日本でも戦後すぐの労働運動では公務労働者が中心でした。ですから日本の戦後労働運動の走りの時は、まさに役人から労働者にというふうになって、労働組合運動の先頭に立ってストライキもたたかっていたわけですね。

そういう意味では、労働運動において公務労働者への階級的連帯感を広げるということと、加えて公務労働者だからこそ尊重しなければいけないという流れになるためには福祉国家型の行政を担い、多くの国民から頼りにされるような公務労働者にならなければいけないと思います。スウェーデンがそうですね。スウェーデンは医療が国費ですから、医師は公務員です。ですから、賃金は高くない代わりに、医者は公務員としてまさに公共的医療サービスの先頭に立つ。すると自分の報酬は賃金ではなく、社会的評価の高さが自分達の拠り所になります。

スウェーデンには、こんな逸話があります。スカンジナビア航空でスチュワーデスがこんなアナウンスをしました。「今日は良いニュースがあります。スウェーデンの医師がご搭乗されています!」それで拍手が起きる。それだけで飛行機に乗っているスウェーデン市民は安心するのです。つまり、市民から公共的医療サービスの先頭に立つ医師として頼られているわけですね。その代わり、スウェーデンの公務員は自分の利益のために仕事をしているのではないという認識が共通してあります。これが医療労働の本当のあり方ではないでしょうか。そういう話を私は日本の医師にするのですけど、多分それは他のいろいろな部署で、すでにそうなっているところもあると思います。そうやって公務労働者が国民への信頼を広げていくことが大事ですね。

――本日は長時間、ありがとうございました。

▼インタビューの一部を視聴できます。

井上 伸雑誌『KOKKO』編集者

投稿者プロフィール

月刊誌『経済』編集部、東京大学教職員組合執行委員などをへて、現在、日本国家公務員労働組合連合会(略称=国公労連)中央執行委員(教宣部長)、労働運動総合研究所(労働総研)理事、福祉国家構想研究会事務局員、雑誌『KOKKO』(堀之内出版)編集者、国公一般ブログ「すくらむ」管理者、日本機関紙協会常任理事(SNS担当)、「わたしの仕事8時間プロジェクト」(雇用共同アクションのSNSプロジェクト)メンバー。著書に、山家悠紀夫さんとの共著『消費税増税の大ウソ――「財政破綻」論の真実』(大月書店)があります。

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